自著の「はじめに」の試み

【論】●10月15日追加あり。


●●お詫び: 10月8日に、すでに以下の草稿が乗っています。これはそれを上書きしたものです。12日になって、コピーなどしていじっていたら消えてしまったと思い、そのコピーから復活させたものです。できれば後に、以下を正とし8日の文章は消去します。ダブリで読まされた方にはお詫び致します(13日記)●●



進めている自著原稿の「はじめに」は書き変えたらどうか、というアドバイスを得ています。
それをトライするのに、ブログを利用してしまおうという考えで、その試案をここに掲載してみます。まだ変更されるかも知れません。




「はじめに」


資生堂名誉会長の福原義春様にスピーチをお願いしたことがありましたが、その時、福原様は「イタリアの観光地は最初からその目的でまちづくりをしてきたわけではない、と言われてしまった」という話をされました。
ヤマザキマリさんの「テルマエ・ロマエ」というシリーズ著書が人気だという話から、本人にインタービウしている番組に出会ったところ、イタリアに居て五百年とか千年とかの時間を経た文化と一緒に生活していることによって、ぶれない個人の立場を知った(意訳)という話がありました。そこに根を張って生き延びてきたことによってのみ得られた個人の力があるということでしょう。

これらにはどれも、日本のことを言うのにヨーロッパの話を持ち出して言わざるを得ない雰囲気を感じてしまいます。
もう外国から貰うものはない、と感じている人が多いはずの今の日本ですが、それでもまだ何かある。それが言わせているのでしょう。それは、我々が自分の内にあると思っているものはどうも本来自分が持っていたものではなく、教えられ与えられたものにすぎないのでは、という感覚と重なってきます。

それはどうやら「本来個人が持っている能力をどう社会的に活かすか」という問題になってくるようです。


政治も経済も行き詰ったこの国で残されたものは何か、を問うた時、それが個人の創造力を生かした社会と経済の新しい組み立てでしかないだろうというのが本書の主張の根底ですが、そんな時にこそ、まだ日本に無いものがあるというこれらの話が生きてくるのでしょう。
そこには血と汗と涙にぬられた殺戮と陰謀の長い歴史がありました。いま、このような国際化の中で、自然は狂暴でも、人はどこか優しい島国の日本人が育てたもの、育てられなかったものが、改めて問われているのです。
例えば、これだけ成功したように見えるこの国の自殺者が世界一、二とは衆知のことですが、この不幸は何を意味するのでしょう。
若者に夢を与えず、行き過ぎた管理化社会のためなのか。少なくとも、私の職業をやっていても、ものすごく規制の多い―しかもそれが対面のものでなく、ペーパーによる―社会だということを感じます。貰って来た知識とシステムで組み上げ、上から(供給できる側から)投げかけただけの国になってしまったのではないか、という気がしてきました。
そこには肌で感じ、土と風の匂いのする人間味は完全に問題でなく、資産運用が計算出来ない者は置いてきぼりを食うような、供給型主導の怜悧な経済および管理構造が働いています。こういう中で日本経済は悪くないという人が正しいなら、政治はなぜ格差化に手が打てないのかが問われています。
こうして一事が万事、周囲の職業を見ても、その底知れぬ構造的な問題が浮かびあがってきます。
これらを打開するには、もはや既存の構造のままではいけないとは、すでに多くの人が言っています。
ではどうするか。改革に意のある生活者が自分の居場所から繋がってゆく、法制に詳しい者はその立場から行政のシステム改革を提案していく、と言うように民間の意を表に出して行くことでしょう。


自分の分野からしか発信できないのですが、私は、建築家、デザイナーのような居場所から、以上のような問題に組みついてみようと思っています。
ですからこの話は、創造力を発揮して仕事をする人たち―それは個人をベースにしているのですが(以後、このような人たちを「クリエイティブ・プロ」と総称します)を活かす環境を探りながら、その実、そのための考察対象は日本人論であったり、日本の歴史であったり、政治・経済・産業・文化・教育などの主要な現象であったりします。


本書の主張はそれが―つまり、創造力を発揮して仕事をする人たちを活かす環境―が、旧知の職業概念を組みかえることによって、まずその「戦略的下地」を生み出すことができ、その上で、社会的な位置取りをしていくことが出来るはず、というものです。そこには個人の能力を最大限評価する価値観があります。
ではその「下地」とはどんなものでしょうか。また下地が把握出来たら、その上でどうしたらいいのでしょうか。それが本題です。(1682字)