考える葦

【論】●補記:以下に7月12日の追記あり。●印以下




楡周平氏の週刊誌記事に振り回される


去る5月16日号の週間新潮を偶然、パラパラと見ていたら
「プロの仕事が否定される世界」
という文字が飛び込んできた(連載「考えない葦」第44回)。
え? これって我々の問題じゃないか。
ここしばらく、この問題に振り回されている。


楡氏の言うところではアイデアやコンテンツの提供は、ネットの蔓延する近未来の社会では、「オリジナルデータに多くの人が手を加え、形、デザインを変えた亜種が数多く存在するようになれば、仮にそのデータの根本に著作権意匠権の侵害があったとしても、違法として排除することは極めて困難でしょう」となる。
それは3Dプリンターの普及や、ウィキペディアに見るような「万人が知恵を出し合いながら無料で情報を共有…それが人々の利益、幸せにつながるのだと信じて疑わない風潮」が当然視されてきた背景があるからだ。
こうしてハードウエア(モノとしての商品)の価格には注意を払うのに、ランニングコストやそのベースとなるコンテンツには無頓着な人々の世界が日常化する。ここではハードと見られやすいが、我々からすればデザインもコンテンツのうちだ(大きく関わる、ということ。ハードと見られやすいのは、デザインが企業の内に組み込まれてきたからである)。


こうして更に楡氏は言う。「ネット上にはオープンソースが溢れ返り、誰もが無料で再現したい物のデータを、簡単に入手できる環境が日々充実の度合いを深めていく―。
つまり、意匠や著作権パブリックドメインとなってしまうわけですが、果たしてそれが幸せな世の中なのでしょうか。オープンソースコンテンツの世界には、対価というものが存在しません……しかし、それはプロの仕事を否定する世界であり、結果、責任の所在、安全性、信頼性が保障されない世界でもあるのです」



この問題に取り付かれ、うっかり楡氏に次のような手紙を送ってしまった。

楡 周平様

拝啓

(前略)…そんな者が突然のお便りを試みることになったことをお許しください。
それというのも、「だから、そのままでいいわけがないだろう」という気持ちが、どうしても消えないためです。

(中略)…翌週の「かくして『夢の時代』がやってくる」も読みました。
これで最終回だったので、それ以上の情報が無いのですが、ここに語られていた事は、私にとって死活とも言える命題なので、忘れられなかったのです。

文面のいたるところで、それでいいのかと思われつつも個人の創作に関わるコンテンツには「対価が払われない」「対価が存在しない」とありますが、「そのままでいいわけがないでしょう。どうしたらいいでしょう。何とかしましょうよ」という気持ちなのです。
というのも、もちろん一人でやれるようなことではありませんが、これだけ文が立ち作家としても知られた楡様なら、ご自分が直接関わらなくても、何らかの政治、行政上の施策案などのアイデアは出せるのではないかと思うからです。あらゆる創作活動に伴う労働対価は国が保証する、ような。
視野に入れられている著作権の成果消滅は、作家と音楽家にしかないということではないでしょう。
逢ってお話しが出来るようだといいのですが。
私(我々=建築家、工業デザイナーなど)も考えていますので、よろしくご指導願います。

まずは感想まで。
                                  敬具

平成25年5月23日



この大きな課題は、すでに述べたことのある妹尾堅一郎先生のセミナーで面識を得た二人の女性プロ(大雑把に言って、空間デザイナー経営コンサルタント)の来訪を受けた際に話題となり、後からこの「楡コピー」を送ったところ感想を頂いたので、余韻が残るうちに、お二人の了解を得て拾い読みをさせて頂くこととした。

●お二人の意見は、返事を頂くのに、少なくともある時間は考え、戸惑い、書くだけでもしかるべき時を費やしたのは事実であり、そこには誠の実感が込められている。 メールをそのまま破棄してしまうのがもったいなかった。文章は、少々編集させて頂いている。



空間デザイナーの方から:

考えさせられる記事でした。
私たちの生活はどこまで便利になる必要があるのか?ということはよく考える事ですが、今は、経済を廻して行くため...という視点が優先させられてしまう時代なのでしょう。
サッカーの試合をしていた我々がプロレスの試合をしなければならなくなった。それがグローバル化ということだそうです。その言葉を聞いた時に好まざるとも仕事としてデザインをしていく限り一人このリングを降りる事はできない とのだと覚悟を決めました。

フィーに関しては先生とはまた違った立場で、色々考えるところはあります。
クライアントと打合せをしたり、内装材/家具/照明などのショールームに行ったり、図面を書いたり、プレゼン資料を作ったり、今度は業者さんと打合せをしたり、工場に足を運んだりなどの仕事量を考えると、一つの物件が終わった時にかかわった人の中で対価として,一番割があわないのでは?と思う事も度々です。

しかし、まわりを見渡してみると、交渉能力に長けている人もいれば、ソフトにこだわらず一部商流も含め仕事としてしまう割り切っている人等もいます。後者の人達に対してはクリエイターの魂を売ってしまっていると思った時期もありましたが、その商流を自分のデザインした特注家具等の範囲に限る(自分でデザインした物を自分で売るという考えです)ことで、自分の中で決めたボーダーラインとして、今では可能な場合には私自身もこの手法を取入れるようになりました。


住宅の設計に関しては、以前は、自邸の設計を建築家に依頼するといえば特別な事でしたし、それができる人も限られていたのだと思います。施主側もその特別な事に対してはそれ相応の対価を当然のこととして理解していたのでしょう。
現在はかなり状況が変わり、良くも悪くも気軽に建築家に依頼できる環境が用意されている時代。
依頼主も様々ですので、それをふるいにかけるためにも、また教育するためにも、サービスでの提案の範囲を設定し,早い段階で相手に伝えるという事はお互いのためにあった方が良いと思います。
限られた範囲の中で表現しきる事は難しいところでもありますが...それでも自衛する事は大切ですし。せめぎ合いですね。

先生は、個人的な問題としてだけでなく、業界として設計,そしてそれに関わるソフトに対する対価をきちんと支払う文化を根付かせる必要があるというお考えなのでしょう。
問題になる様な個人も会社も、自浄努力等働くはずないでしょうから、仕掛けるしかないのでしょうけど。

それでも、今が仕掛けるのに良い時期とも思えません。先ずは自己防衛して機会を待つ事でしょうか。



経営コンサルタントの方から:

楡周平氏の記事をお送り頂き、ありがとうございました。

経済や産業構造の行く末、社会のあり方、それらを支える各々の分野のプロフェッショナルへの尊敬と権利の問題、私たちは当たり前のように思っていた社会基盤や信頼性の危機に瀕しており、これらについての議論と再考をせねばならない時期に来ているにも拘らず、政治からメディア、ひいては個人に至るまで短視眼的で表層的な議論しかなされていないことに強い危機感を覚えます。

「無料であること」「安価なこと」「安易に手に入ること」が選択基準の大半を占めるようになった時、どれだけ技術が発展しようとも、社会の発展には繋がらないように思います。

「お遊び」のようなツール開発をするネット企業に巨額の資金や優秀な人材が集まるのではなく、本当に社会の発展に貢献する技術や人材が評価されるようにするため、自分には何ができるのかと問う日々でもあります。