ガラスと鉄とコンクリートの行方

【新トーク:空間】


ガラスと鉄とコンクリートの行方


都市が持つある種の非情さを考えてみる。
すると、人間のスケールを超えた平面や直角で切り取られたガラスや金属面のせいではないかと思いあたる人も多いだろう。マンハッタンがまさにそれだ。真冬の街中などとても歩く気になれない。

「現代建築」というと、ガラスとコンクリートを思い出す人が多いだろう。
人によってはこれに鉄が加わるかもしれない。そういう人はかなり建築に詳しい人だ。また、アルミとかチタンなどを思い出す人は、もっとも最新の事情に通じていると言える。
この見方は、人間が住むための素材が科学技術の力によって、近代以降、どんどん変わってきたことを示している。その結果、ぼくらはガラスやコンクリートの箱に囲まれた生活に慣らされてきた。

自分のことで言えば、小学校時代の一時、写真で垣間みたガラスと鉄だけで出来た住宅を大変美しいものだと思った記憶が、後々まで自分の人生を縛ることになってしまった。建築家なら誰でも知っている、ミース・ファン・デル・ローエの「ファンズワース邸」である。
新しい素材がどんどん出てくるようになっても、建築に使える素材となると限られてしまい、やはり、鉄とコンクリートとガラスになってしまう。石積みやレンガやブロックもあるが、日本では構造に使える建材とは言えない。唯一の例外が木材だが、長い世紀にに渡って使われてきたために現代特有の素材ではない。
ということは、今でさえ、この3つを基本にして都市を造っているのであり、このうち外壁に多用されているのがガラスであり、あとは金属パネルとかタイルのパネルのため、都市がある意味で非情になってくるのは避けられない。
僕らの世代がガラス壁面の美しさに魅せられて育ったことからも、街がある種の清潔感、潔癖感があるにせよ、結局のところ非情感に占領されてきても、「これでいいんだ」とか、実際に美しいと思い込んで来たのは間違いないだろう。

もはやコストを無視すれば、木材を生かしたビルや植栽をパネル化した建物も可能になっているが、世界中どこに行っても同じような「新都市」を造らないためにも、そろそろ「新しい建築」の大転換が必要な時代になってきている。ドバイやシンガポール、上海や北京を見ていると、この問題を感じずにいられない。