レオナルドを現代に連れてくれば

【新トーク:モノ】(写真:レオナルドの作品の一つ)




レオナルドを現代に連れてくれば




レオナルド・ダ・ヴィンチのことは昔から気になっていた。
誰でも知っている有名人だから、というのではない。生き方、考え方、時代背景などが、思い上がりかも知れないが、手に取るようにわかるという気持がそうさせるのだ。

実際、ミケランジェロの話から、かって自著でもすでにこんなことを言っていた。
「当時は、彫刻制作のために、死体を貰ってきて解剖したという記録もある…レオナルド・ダ・ヴィンチになると、もう少し理知的か。合力学的に、つまりニュートン力学的にといおうか、いろいろの道具や仕掛けがスケッチ上で発明されている」(「デザイン力/デザイン心」p166:2006)

ここまでは伝記の域だろうが、このレオナルドの理性と感性が、現代のある種のクリエイターたちにとって格好の模範メンタルであるように思えていたからだ。

草花の観察写生にしても、人体解剖図にしても、そこには現実の世界への真摯な好奇心のようなものが常に付きまとっている。それほど当時では「その気になれば」、未知や不思議に取り囲まれていたのだろう。
当然ながら、彼が「見えるもの」の世界を軸に思考をめぐらせていたことが、現代では建築家とかデザイナーの思考範囲に重なってくる。ということは、科学や技術の進歩が、現代では恐ろしいような抽象性に達していて、皮膚感覚的に人間が把握できるようなものではなくなってしまっていることに繋がっている。さらに言えば、社会が大きくバーチャル化し、モノの実体性が見えなくなっているのだ。これを知って厳しく言えば、このような現代の理解からすれば、レオナルド的なメンタルではやれないと言うことだろう。
しかしそれだからこそ、このメンタルの尊さがあるのであり、ここに踏みとどまることこそ、現代での意味がある、という感じ方があるのだ。


もう一つ、気になるレオナルドのメンタルが、あの「モナ・リザ」の制作に見るように、作品(モノ)を自分のそばに置き、常にブラッシュアップを計りながら死の床にまで持って行ったという点だ。
永遠を信じていた。そして作品の永遠性も信じていたと言うことだろう。そのことは、彼が科学的な思考態度を持っていたとは言え、そのような宗教性も加わる永遠性について、疑いもなく信じられた幸せな時代に生きたということを示すのだろうか。
もし、現代に生きる以上、「永遠など信じるな」ということであるなら、わかっていてもあまりにも淋しい。そうなるとレオナルドが信じていた永遠ではないにしても、有限を知った上での永遠性への魅力や美しさを、彼から学んでもいいのではないか、という気持ちも湧いてくる。
レオナルドが、現代に生きていたら、使い物にならないのだろうか。それとも現代にこそ必要な救世主なのだろうか。