夏の闇が教える命のささやき

【新トーク:空間】



夏の闇が教える命のささやき


「軽井沢のよさは木立と闇である。…」
これも前著からだが、そういうイントロから「闇」の話に入った(「デザイン力/デザイン心」p154)。
身近に押し寄せた別荘地での乱開発気味の体験が、闇の美しさへの自覚になっている。
まち中に近くのため、徐々にマンション、ホテルなどが建ち始め留まるところを知らない。これはほとんど軽井沢という土地だけで起きている事情のようだが、今や年中住める町に変貌しつつあり、ここから東京に通う人もどんどん増えているようだ。これでは開発が進むのも無理が無い。
闇とは言ったが、これで、冷涼で無音な夜の静寂(しじま)も無くなっていく都会的な風景が読み取れる。 
 
闇をうまく身近な世界に持ち込めないものか。
都会人にとって闇夜とは何だろう。
「暗さ」への魅力は、これだけ夜も昼もないような明々白々すぎる現代人の日常生活の積み重ねの上に、いやが上にも増してきたのは明らかだ。
ただ、遠くに車の音や人の声が聞こえたり、街路灯があって何となく明るいところがある、街の明かりが空に反射するのか、ぼんやり周囲が判るなどは、真の闇ではない。本当の闇は、そこまで行けば風のそよぎや月明かりなどが大自然の一部として迫ってくる。何か神経が張りつめて、むしろ怖くなり、近くに人里があって欲しくなる。そこまで行く必要は無いとしても、生活空間の中にこのような闇を意識させる場があってもよいように思うのだ。
暗さが増すと、人はおのれの生と死を意識する度合いが増すように思える。そして、自分がたった一人で宇宙の片隅で孤高に生きているような気にもなってくる。孤独な自分を意識するための空間設備。それがどんなものか簡単にはわからない。
ドイツの建築家ダニエル・リーベスキンドは「ユダヤ博物館」(ベルリン)でこれを試そうとしたのだろうか。でも、空間を仕切って闇を創り出すだけでは人工的過ぎて、日本人の琴線に触れてこないような気がしたのも事実だ。

闇とは、普通には室内ではなく戸外のことであり、このために冬の闇は寒くて戸外への意識が無くなるため、多くの場合、意識が外に向く夏場の闇が話題になる。そこで花火や夜祭り、灯籠流しや送り火などが役割を得る。みな戸外である。そして起源は輸入ものであれ、知る限り日本人の風土に順応している。
闇の怖さと懐かしさは、日本人にあっては、切っても切れない何かである。それが夏の夜にあって、ほんのひとときの人生の哀歓を実感させるステージを現出させる。
現在のまちづくりにこの問題は、安全・安心を理由に一切の関心を示していないと言っていいだろう。転換期である。