自己表現が難しい

(以下、ゆっくり考えていられないので、もうちょっと時間をください、と言いたいところだが…)



とても忙しい。
何たって、余計な仕事がどんどん溜まってきて・・・
師走のせいかとも思うが

JIA中野地域会での「トーク・バトル」を経て、ある境地が出てきているけれど、それを表現するのがとても難しい。

これを表わすのに、当日の録音を編集してうまくフィクション化できればと思うが、さて、討論の抽象性もあってやれるかどうか。

その影響か、要請されたJIA港地域会の次のテーマ「心を紡ぐ建築」へのチラシ原稿に、担当のMさんの素敵な想いを告げられて、
>

そんな人、いるんですか?

建築を発注する人に、「空間の持つ心象風景」に心を奪われている人なんて本当にいるのでしょうか。 
最近聞くところは、宣伝力(知名度、作品暦紹介度など)、コスト、優遇税制、日程、保証、人間関係信頼度などのデータ的確認要求ばかり。 このハードルが高くて、造ってみなければ「空間の持つ心象風景」なんて本当には判らない、行き着かない。それを先回り読み込んでいるのが本当の建築家です、なんてことは考えてもいない。思いもしないようです。 思う必要も無いですものね。 写真効果やCGで「いいでしょう?」で十分。 それも受け取り手の勝手ですが、個人の、家族の、地域の本当の求める安らぎや、求めずして得られるような心象風景や「隠し味」(Mさんの素敵な言葉)を得たてく、設計を頼んでくれる人なんて全然、いませ〜ん。

と言うのを出そうと思ったら、強い抵抗が(笑)
そこで、それなりの理屈をつけてみたが、それも愚痴でしょ!
その言い訳と言うのが以下のメール。
(関係者に発信の合意を貰っていないので、当面、匿名で)



Mさん、Tさん、皆様


…Mさん。そのように受け取られたのはまことに申し訳なく、お詫びいたします。
私としては、実は全くの反対で、(あなたの書かれた「心を紡ぐ建築」へのフレーズは)実に気の利いた素敵な文章で、これは本当にいいことを言ってくれているな、と感心していたのです。
(あなたの仰ること)これは建築家にとって本懐ですね。「心象の在り場」を感じます。
で、感心すればするほど、一般の理解に泣かされてきた自分の現実が思いやられ、落差の大きさを感じもしていたのです。

もしかするとそこに、ちょうど過日にあった、中野地域会での「トークバトル」なる論戦の思いも投影されているのかも知れません。
この番組は、意図的に対立議論のようにし、そこから一般にも判る生々しい現実を引き出そうとしたのかも知れませんが、ずっと違和感はありました。

でもやってみて、自分もある意味で、これに呑まれまいとする意欲からか、生々しくなり、これでも行けるんだというような気持が生まれていたのも事実です。

そこでチラシには、「いろんなことをいう奴がいてもいい。むしろその方が面白いんじゃないか。あえて(社会に向かってですが)喰ってかかるような言い方で一般の人に気づかせる、という方法もあるんじゃないか」という気持になったのです。
ですから、Mさんへの反論のつもりでは全くありません。対立図のように見せる紙面は、外部の人間には問題の所在を一層明らかにするのに役立ついい戦法だ、という認識なのです。

多分このためには、人を笑わすために戦略を練る二人漫才ではありませんが、やるからにはMさんに先に連絡して、よく打ち合わせをして了解を得ておくべきだったと反省しています。
いずれにしても、お騒がせしてすみません。 以上の説明で納得して頂けなければ(Mさんだけでなくほかの方々の意見、あるいは合意でも)、すぐに書き換えますので、ご連絡ください。
よろしくお願いいたします。


それがやはり、理解がむずかしいと受け入れられず駄目で、では、と、改めて出したのが次。
正確に言うと、こんなひねった言い方しても、しなくても、どう取ったって愚痴でしかない。一般の人は建築家に夢を求めているんだ、と言うことでしょう。
最もです。多くの建築家はとても純粋です。


> ヨーロッパで改めて教えられた日本住宅の魅力
>
> 外国生活(ミラノ)が長かったので、石畳の床、モルタル壁やレンガ壁、小さい窓しかない空間に嫌でも慣らされてきました。こういう空間にいると、やはり心が内向きに締め付けられるような感覚にとらわれるようで、中近世を生き抜いてきた民族のメンタルが思いやられるような日々でした。そのためにでしょうか、「やっぱり俺は日本人だ」という思いも日増しに強くなって、日本にいたときは気にもしていなかった吉村順三の住宅設計図を取り寄せてみたりして、「あまりにも開放的で自然に近い日本住宅」のよさを思わずにいられませんでした。 そのころから、風が通り、陽光が差し込み、軒先と雨の微妙な絡みがあり、内にも外にも自然が宿る日本住宅の魅力を出来るだけ活かしたいと思うようになりました。


ここにある主張の、自己内格差はどんなものだろう。僕自身が大きく揺れている。
誰に向かって、何を言うべきか。自分でも判っているようで、判っていない。
この感覚の拡大版が、過日の「中野トーク・バトル」だ。







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