ファッションを下流に見る眼

【論】 8月16日に追記。


ファッションはなぜ芸術的に低くみられるのか             20140809





同じデザインでも、ファッションを下流に見る眼がある、という。


そういえば、普段あまり気にしていないことなのに、気がついて考え出すと、なぜなのかよくわからないことの一つに、「ファッションとか、フラワー・デザインとかは、どういうわけか、芸術という概念で見ると、何か一歩低いような気がする」(という感じ方を持っている人が少なくない)という問題がある。

もちろん、そんな事は無いと信じている当事者も多いだろうし、言われて初めて、まさか、と思う人も少なくないかも知れない。

自分もある時期、そう見えたからこそ、ファッションの世界に入らなかったし、今もその気にはなっていない。しかし、なぜかと深く考えた事は無い。それを考えてみよう。


まず、ファッションは女性の身の周りの装飾に関わるという思いから、そういう事は「女子供の世界」という男女差別観から来るのかも、という考え方があろう。実際、差別しているとは思わないが、男は「自分が外の世界をどう見るかに意味を見出し、女は自分がどう見られるかに意味を見出す」、つまり意識の外向きと内向きの矢印が反対、という感じ方は随所に見受けられる。そこを展開していくと、男から見て外向きでない思考の産物は「価値が低い」ということにもなろうが、そうなると、自己の内面に向って創造行為を展開した芸術家も山のようにいるわけだから、内向きを外面性と内面性にわけ、この矢印は外面性だけ言う、としなければ、この説明は弱くなる。

次に、体にまといつくという「使用目的」を持っているわけだから、「目的機能」を持っているものは芸術度が低い、という見方もあろう。確かに絵画などは、何の目的?と言われれば、空いた壁面を飾るためという返事もあるはずであり、そこから言えば「目的機能」があるにしても、一般には、壁に飾るためと思って絵画を見ている人は少ないのではないか。

一般にデザインは「目的機能」を持っているわけだから、この観点からすれば、ファッションと変わりはない、という事にもなろう。実際、家具デザインなどを見ていると、ファッションと変わりないのではと思えてくる事もある。ということはデザインでくくられるあらゆる創造的な所作は、芸術から見ると、一段、低いと言う事にもなろう。

そう言っておきながら、内心では、デザイン一般はファッションとはもう一段違う(芸術度が高い)という勝手な認識も生じている。ということは、「目的機能」を持った創造行為であっても、認識の仕方次第で芸術にもなるということであり、ファッションだって芸術度が低いと言い切ってしまえるようなものではない、ということが判る。

三番目に思いつく事は、時流とか流行とかに合わせている、あるいは流行を創り出そうとすることが問題である、とする考え方である。確かに、芸術と思われている事は、最初から流行に乗せようとか、合わせようとかの意識とは簡単には結びつかない。その意味でファッションは「世俗的」であり、価値が下がると思われ易いのももっともだろう。



しかし現代のアート制作を、本質的に「無目的」などという意識で創作している芸術家なんてほとんどいないのではないか。むしろ逆に、アートを制作していると称しながら、その実、どうしたら売れるような商品になるかを夢中で模索していると言うのが大方の実情のように思われる。それは、いいとか悪いとか言うより、現代社会があらゆる混沌を抱合していて、何が正しいかほとんどわからないからでもあろう。自分のやっていることが商業活動になって何が悪い?という実感に至れば、もうやるしかない。宗教的な、神への帰依などが消え去っている現在、アートを商品制作として扱っている者も大方、許されている。そこには本当にいいものは「向こうから語りかけてくる」はずであり、その観点からは、ファッションでも、なんでもいいという考えがある。アートであるかどうかは後代が決めるのだから、と。
その意味では、純粋美術と言われるものと、デザインと言われるものの境界線は無くなって来ている。その分だけ、純粋美術と称して「売らんかな」の精神を持っているより、生活機能をもつ品を創って「アートにならないかな」と思っている者の方が、ある意味で素直だと言えるだろう。


そんな視点を持つと、例えば、ちょうど14日まで日本で公演していた、レディ・ガガの「ファッション」を取上げるのは面白い。
彼女自身は、「ファッション」とも「アート」とも言っていないようで、直感的な関心と意欲で突き進んでいる。
1986年生まれで現在まだ28才、イタリア系アメリカ人だった彼女は、「飛び級で入学したニューヨーク大学芸術学部を中退して、家を出て、一人で道を切り拓いて生きていこうと決心した時が転機」という。家庭は貧しくなかったようだが「ストリップクラブのダンサーとして生計を立てながら、音楽業界に売り込みを続けた。歌手デビュー前に、ソングライター(この場合、結果的に作詞、作曲、振り付けまでを含むものとなった)としてレコード会社と契約。その後の自分の楽曲もすべて自作」。


彼女は自分の演出に100%こだわり、日本人の「アーチスト」をかなり使っている。例の花魁(おいらん)の高下駄からヒントを得たと言う超厚底ハイヒールなどの提供者館鼻則孝(29)、「人間の第二の皮膚」をコンセプトにした、全身がキラキラする超高密度、圧縮織全身ニットタイツの提供者廣川玉枝(38)、エナメル仕上げの「甲冑ドレス」などの提供者森川マサノリ(30)、「錯視」研究者でありながら実例として「錯視作品」を創り続け、ガガに利用されている北岡明佳(52)などである。他に山本寛斎などもいる。
ガガはこのように、普段、気にも止めてめていない日本の伝統や、日本人だからこそ注目する、とんでもない視野の中にアイデアがあることを、先行して感じ取り、実践してしまっている。


こういう現実を知ると、これが「アート」か「ファッション」か、「ファッション」は一段低い、なんて言っている場合じゃないと実感できるだろう。センスに自信があるなら、行動が先ということか。
(参考引用は文芸春秋9月号:石井謙一郎氏記事による)