育たなかった中産階級

【論】


ここしばらく旧著をひも解いている。そこからの想いを綴ろう。


われわれの日常にあまりにも関わってくる「あれ駄目、これ駄目」「ああしろ、こうしろ」「こうしないと、こうなるよ」。
振り回される日常は、大中企業社員のように組織活動の一部を受け持っている者にはわかりにくい。それぞれの専門担当がいてフォローしてくれるからだ。問題は個人や個人事業者に近いところで働いている者にとって起きている。情に踊らされたり、あきらめとも嘆きともつかぬ心情で過ぎてゆく日々があろう。
こういう視点を意識すると、確かに今の日本人のいる立場は不確かだ。
我々の親や祖先が、自分たちのやっている仕事を国の事業や行政の管理下にあって、どう位置付けるかなどの観点から、体を張って問題を把握し、必要なルールを「育ててきた」わけではないのだ。

我々は流されてきた。ある日、気が付くと、「これこれはこう申告しなければならない」などということを頭ごなしに指示され、その通りにしなければ「懲戒処分」になることが分かってきた。
この流れは、官僚によって作られ、国会議員たちが問題の深い意味での適正度を判断する余裕もないまま承認してきた規則の類を、日本人の多くがそのまま受け入れることによって、事実化してきたものだ。それどころではない。日本には膨大な「通達」制度があり、各省庁は「熱心にこの法規外の指示をばらまいている。これ以外にも、口頭による指示はさらに多くの数にのぼる。これがいわゆる行政指導」である。これらは国のためを思い、よかれと思って進めてめている官僚の努力の成果だが、あまりに複雑多岐にわたるようになり、個人や小企業はこれらに追いつくだけで、日々の業務が終わっていくような状況になっている。よく考えてみれば、この状態は昔ながらの「お上と農民」のようなものではないか。いつになっても変わることのない上下関係となっている。

こうなっているについては、歴史的な検証が必要である。
その中で、一人の人物が取り上げられている。山縣有朋である。少し調べておく必要がある。