どう言えば受け入れられのか

助けてあげられない青春の懊悩



今日の、ある大学のインテリアデザイン科でのサポート授業はある思いを残した。
「デザイナーは馬鹿だから」 と言ってしまったのだ。
その時は当然のことを言ったまでで、受け入れられると思った。
後から考えると、もし落ち込んでいる学生諸君だったらば、余計に落ち込ませてしまったのではないかと気になってきた。


コメントとしては自分がいかに言葉を知らずに苦しんできたかを言ったから、その流れで、言葉を知らないデザイナーは、人を、社会を説得出来ない。本を読まず、言葉の奥深さに感じ入らないデザイナーは社会 (と言っても産業界のことだが) に受け入れられず、説得もできない。 だから馬鹿だといったのだが、若い子たちが社会を説得しようなんて思っても居ないのかも、と思い出したのだ。 それに組織に属してのして行こうなどとも思っていないのかも、とも。
もとより今度の出版を紹介して、本を読むことの重要さ、その意味が 「自分の考えを言葉に出来る重要さ」 だ、 と伝えたかったからこうなったのだが。


先の見えない社会、自分たちの未来に希望が持てないのが現代の若者たちなら、その心理にこちらが組していけるのかどうか不安になった。
もっと時間があったら、作家の川上未映子などを取り上げて、生と死の不安、親子の相克など、身近な自分の問題から入りたかったとの思いも残った。
ともかくも担当教員の横山先生にお願いして、ブログのコピーでも渡してもらうことにしたのが救いだった。
(2015/1/31の記事:「ある中一生徒たちへの伝言」参照)