クラウド時代の思考術(続き)

追記あり:4/5  番号表記の3、6項目辺りから7、8、12へかけて追記。  
4/12  ミュシャについて最後に補記。   



また書くか…。



家内などはしつこく言う。
「あなたは言葉の人じゃないでしょ?視覚表現の方がはるかに才能があるのに」
それは判っている。
視覚表現を止めたわけではないし、現にいろいろ実行し、模索もしている。
じゃあなぜ、こんなに言葉ばかりで自分を伝えようとするのか。
そこにこれまで自分が辿ってきた苦痛の歴史がある。それを思いつくままにメモってみよう。


1・この国の形(明治以降)が言葉と視覚表現をあまりに乖離させてしまった。
2・教育と文化がそれを実践している。
3・政治家も経済人も市民もジャーナリストも、全部この影響を受けている。彼らは真面目になるほど、教条化した「美」しか認めない。その場合の判定軸は言語だ。
4・産業構造の巨大な転換期になり、モノの価値、メディアの位置(新しい判断基準)が定まらない。
5・従って芸術、文化も定まらない。
6・建築設計は、施主の意向を十分くみ取った上で、自分の考えを視覚表現出来る(自分に取って)好ましい分野だが、あまりにも規制化と罰則化、分担組織の必要化が進みすぎ、特に好んでくれる依頼主でも現れない限り、ほとんど手が付けられなくなった。まして社会を動かすような仕事をしようとするなら尚更だ。 (注:地域に密着して地域創成から考えることを「社会を動かす」と考える人を否定しているのではない。また、こういう状況を受け入れて、顧客目線で働くべきだと信じている設計士などを否定しているのでもない。別の価値観である。建築家を育てる努力を放棄したのでもない。「建築基本法制定準備会」などへの協力は惜しまない)。
7・「アート表現」について言えば、たまに個展などやってなんの影響があるのか、という実感。各種の大きな展覧会に行くと死ぬほどの「力作」であふれている。しかし「社会的な発信力」はない。それは場とモノが持つ問題ではあるが、視覚表現そのものがメディアに載せても「社会的な発信力」が弱いことと (上記1〜3項にも大きく関わる)、現代アートがすでに「崩壊」していることもある。(注:例えばミュシャの晩年の考え方のような姿勢を否定するのではない(最後に補填説明)。「地域アート」についても同じ考え。「崩壊」していることについても、アンディ・ウォーホル辺りを頂点としての、当面の自分の考え方だ)。だから、「社会への影響力なんて考えない。自分の内面性に従って表現してるだけだ」という作家を否定しているのではない。それで進められる人はむしろ羨ましい。
8・個人が、資金力も組織力も大きな人脈もなく「大変動期における社会的な発表や表現」をしていくのには、とりあえずはメディア(インターネットということで構わない)を通じた言語しかないのでは。
9・このために未来を語る時に、日本のエスターブリッシュ(主にエリートとマスコミ)への説得と、そのためにも共通言語による思考から「語る」しかないとすれば、言葉以外には多くが実体性を失っている。(ある方向では映画・アニメ映像などがあるが、アニメ以外は主にアメリカ文化が偏向した形でほぼ実現させてしまったという立場とする)。
10・歴史の流れがあまりにも早いために、その分、既存芸術・文化 (直近では、美術・工芸・デザイン・建築など) の維持、継承、革新などの意味は逆にあり、そこに美も快楽も安心もある。それを進める人を大切に思うが、もはや自分が主にこれに命を懸ける立場ではないように思われる。主にやりたいことは〔アーツ〕の未来を語り、実証したいのだ (これがそのまま〔アーツ〕の解説も含め、今度の著書への誘導となる。もちろん視覚表現の力を借りられればそれに越したことはない。つまり視覚表現の眞の前衛性は常に意識しているということだが)。
11・ここで語ってきた「クラウド時代の思考術」でも判るように、思考の方法に混乱が生じており、一見、ネット画像情報が優位に立ってきたように思うが、前項9でも言ったように、既存の方法(印刷言語を大切にする)を活かすことが、より存在意味を増しているように感じられる。
12・書くことが気楽な仕事ではないので、それだけで疲れてしまうが、デスクトップの前に座れば書き始めてしまう習慣だけは出来ている。画像表現をセットでつけたいが、こちらを考え出すのはまた別の仕事なので、当面二重の負担になってしまう。アイドリング準備はしているつもりだが。


こんなことかと思うが、これを書きだしたのは、読者の「もう、言葉での抽象論は飽きたよ」という不満が出そろう気がしたからだ。
前記の通り自分でも、もう字面を眺めているような「表現」に飽きている。それでも書くことがあるので、前置きとした。


書いておきたいことは、ネット時代になっても、結局「言葉でも表現している」という事実があるということ。「活字を読む量は減っていないどころか増えている(ディスプレイ上で読んでいる)」という意見もある。
では何が問題かと言えば、言葉が軽すぎることだ。そして思考の道具として活用していないことだ。
誤字、脱字は当たり前。意味を深める用語の選択や転換も考慮しない。頂いた解答を転記するだけのコピー転記も頻繁で、また同じことを読まされているとなる。機能するのは単なる主感情の伝達だけになり、「間違うことも前提にしてしまっており、間違いを見つけるという手間も省いている」。
これで判るが、ネット文章のほとんどは「思考させないか、思考力を減退させる」。
この意味において、新聞、書籍などの活字文化の価値 (長い伝統で、編集者の繰り返しの誤字脱字チェック、意味向上のための書き換えなどの努力と実績の上で印刷されている。思考の内容に一区切りをつける、など) があるだろう、ということだ。


(この記事の思い出しは週刊新潮2015/12/24に、「逆張りの思考」(95回)として連載していた成毛眞氏の原稿「『ネットの文章』から抜け出す」辺りも参考にさせて貰っている)

【補記】 ミュシャは、今で言うグラフィック・デザイナーとしてパリで名声を得てから思考を転換し、故郷イヴァンチツェに近いボヘミア(当時のチェコ・スロバキア西部。中心はプラーハ)に帰り、郷土への想いを表現することに専念した。ちょうど今、展覧会をやっているので、見たうえで本論の立場から論評したい。






別記メモ:昨夜、恒例の東京デザイン・センター「桜の宴」。雷の音とともに始まる。七分咲き。船曳さん、有難う。横河健さん、山村真一さん、稲垣雅子さん、深井晃子先生など普段会えない人達とも歓談。それにしてもマリオ・ベリーニの設計は何度歩んでもいい。出店者にとってはどうか、聞いてはいないが。(「桜の宴」のことは14/4/4、12/4/10、09/4/3、07/4/3にも書いている。特にベリーニのことは07/4/3に詳しく述べている。ちょうど10年前で懐かしく、ある事情が判る記録なので見て頂ければ有難い)。

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