可能性と限界

難しい言葉を出してしまったが、今日この頃の自覚を数言で言えば、こんな言い方になるのか。

このところ、本ブログに記事を書いていないことも、関係している。

 

自分の抱くある頂点のようなものを意識するようにはなっているが、一方、それが全く無意味であるような意識にもなっている。

生命の限界、個人体験の限界。その一方で、現代ほど価値の多様化をもたらした時代は無い。そして行き詰ってはいるものの、それをいいことにしている政財界の複雑怪奇さ。それらを混ぜ合わせると、ほとんど何でも可能。一方で何も意味が無い、という感覚。

今、読んでいる本に「ホモ・デウス」というのがあるが、その膨大な知識が教えることに深く気に入っている。

 

最近、この2月に行ったセミナー「日本型規制社会と知的生産-イタリアン・セオリーに学ぶ-」の編集を終わったことが、気抜けの原因かもしれない。

最後に「人は何のために生きているのか?」との自問で一節を設けたが、この一文の流れが全体のトーンに影響しているのだろうか。

登壇者の神田順東大名誉教授から次の企画を打ち合わされていることも、可能性の方で何かを感じさせる。

 

このセミナーの内容を発展させるのに、「ホモ・デウス」が役立つのかどうか、まだ判らないが、言語思考に長けているわけでもないのに、言葉でしか考えられない世界をさまよっていることが残念だ。

このセミナー記録は、面白いと勝手に思っているが、今日まで、まだ公開していない。

もちろん順次、出来るだけ広く公知していくつもりだ。今日までの所、湯本長伯社会構造設計研究所長が、建築学会の地域会で活用して下さるとのこと、日本建築家協会関東甲信越支部のホーム・ページに掲載されるということが明らかになっているが、肝心の日本デザイン協会のホームページにもまだアップロードしていない。

 

どこまで可能性と限界に挑んでいけるのか、山が見える気がする分だけ、意識の充満は進んでいる。