心に滲みた歌/子供時代の心情。妹のこと。

先日、「ヨーロッパは近いようでも、遠い国だった」と書いたが、実はこれは自分が感化された想い出の歌の話から来ていたのは明らかだ。

今、個人データを扱っていると妙に子供時代や25才くらいまでだろうか、そのころ聴いた歌謡曲や軍歌、童謡が耳にこびりつき出した。ラジオしか情報が無かった時代ならではのことだろう。

その一つが「あざみの歌」である。

 

山には山の愁いあり、

海には海のかなしみや、

まして心の花園に、

咲きしあざみの花ならば

 

ネットで見ると倍賞千恵子の歌が知られているようだが、シンプルで清らかで、これで十分だ。子供っぽくて、ただ悲しみに暮れているようだし、うすら寒い霧が立ち込めた、なんだかよく見えない青白い風景があるように思えるだけだけれど・・・。

いつも歌っていたわけではないし、気にも留めないできたが、妙に郷愁をそそられている。もしかして母親が歌っていたのだろうか?

それにしても曲が世に出たのが1951年(昭和26年)ということだから、もう10才にはなっていた。この頃は何をしていたのだろうか。小学校2、3年だったのは分るが、個人データなどを扱っていると、成人になっての仕事や事件などばかり考えてきたので、この少年時代は、ふっと抜けていた。

今になって、この作曲家:八洲秀章を知った。「山の煙」、「さくら貝の歌」など、同じように琴線に触れる曲の作者だった。何て懐かしい歌ばかりなのだろう。

この曲も大正時代のような感じもする。とは言え、江戸からの伝統とか、ヨーロッパかぶれの時代感でもなく、情報が込み合って何でもありで豊かだが、歴史への想いが無くなり、なんでもすぐ忘れられる平成時代でもない、狭間の日本人の素直な心情が表れているように思う。

歌を紹介したところで、何かになるわけではないが、同じような感覚を共有できれば、時代記録に踏み込みやすいのではないかと思うようになったのが、歌が時代を決め、そこに自分が在った歌曲を探し始めた理由である。もちろん、歌だけとは限らない。映画や書物だっていいのだけれど。

 

【後日補記】またこの歌を聴いていて、ふと妹のことを思い出した。何故だろう?  もしかすると画像に出てきた倍賞千恵子の表情が、一瞬、似ているように見えたからかも。それに、レコードやドーナツ盤で簡単に昔の歌謡曲を聞けるようになってから、ある日、適当に架けていたら、普段は無口の父親が「懐かしいな」といったのを思い出したことも関係するか。当時は家族一緒体という感覚があったようでもあり、妹を想えば、父親を想うということが重なってくる。

妹、内田志津江は2011年(平成23年)8月に69才で亡くなった。当時、自分は70才。

嫁いだということもあり、妹には必要以上の関心は無かった。普通では考えられないかもしれないが、芸術家気どりのメンタルでは有りうることだ、と勝手に思いたい。それに当時、自分の身辺活動だけで勢力一杯だった。特にミラノに10年近くも行っていたことも、縁の少なかったことに関わるだろう。

それがこうなったのは、この曲を聴いていて、一瞬、妹の寂しい心情にぴったり出会ったような気がしたからだろうか。もしかして僕を呼んだのか。

妹は長い間、難病に侵され、寝たり起きたりの生活をしてきた。亡くなる1年ほど前に三浦岬の病院を見舞ったのが最後だった。

死の間際に、「お兄ちゃんに会いたい」と言ったそうだ。

そうだ、俺は妹の兄だったのだ。それなのに何もしてあげられなかった。亡くなって9年も経ってこんなことを思い出している。(5月29日)

 

ヨーロッパは近いようでも、遠い国々だった。

人を恋うる歌(妻を娶らば才長けて…) という曲があるが、いつ頃から聴き出したのか、想いもつかないが、昨日、今日、口をついで出てきている。

4詩目が凄い。

 

ああ、われダンテの奇才なく、

バイロン、ハイネの熱なくも、

石を抱きて野に歌う、

芭蕉のさびをよろこばず

 

これは、一度聞いてから忘れられない。何という西欧ロマンか。

与謝野鉄幹の作詞だが作曲者は不詳とのこと。1904年(明治37年)頃に公知されたようだが、同32年、旧制一高寮歌「思えば遠く」が元歌との説も。

今し思えば、この明治も後半になると、日本は富国強兵ということで、夢のように浮足立っていたのではないだろうか。

戦友(ここは御国の何百里…)もこの頃の歌だ。

今、個人データの作成中だが、新型コロナ・ウイルスの出現という時代変革期を考えても、この時期の後に来る「スペイン風邪」(1918~21)という近似大災害から100年あまり、という歴史的区切りに近い。

ちなみに、わが父親は大正4年(1913)の生まれで、この曲の出た10年余り後だった。

それで、こんなことをデータに書いてあるのを転記したが、この年になると、寮歌のようなものでも、妙に心に滲みてくる。例えば「琵琶湖周航の歌」。

ヨーロッパは近いようでも、遠い国々だった。

ついでに、転記事項をつけておこう。

 

1904(明治37年)は日露戦争があり、このころ枢密院議長の伊藤博文を挟んで文官、武官の対立が深まっていた。

1905(明治38年)、このころが新聞社(メディア)の民間誘導の始まりであり、情報による市民文化への影響の分水嶺だった。事件としては、日露戦争の勝利にも関わらず賠償金を取れなかった(ポーツマス条約)明治政府に怒る市民を新聞が扇動、とある(「日本国記」百田尚樹幻冬舎。主意p315)。

またこの頃を転機としてアメリカが日本を嫌悪する側に廻り始めた。歴史に「もし」があれば、この頃であろう。

「もし、日本がアメリカに満州の権益を分け与えていたなら、対日政策は変わっていただろうし、中華民国の抗日運動を支援することも無かったかもしれない」(解説:同上書p341~343)

 

コロナ禍だ。どこに向かって発信すべきか?

駄弁は止めよう。下手な文章は書かない方がいい。

そう思っても、つい書いてしまうことがある。本来なら言葉にならないことをぐちゃぐちゃ考えているわけだが、ある出会いがあると、「ここだ。俺の気持ちを伝えるのは!」などと思ってしまうのだ。

その例が、「どうする『新型コロナ後』の文化振興策―『イベント助成を考え直し、税金投入すべき芸術とは何か問うべきだ―」(日経新聞5/3:瀬崎久見子記者)を読んでからだ。

書きだすと、つい夢中になる。言いたいことがほとばしってくるからだが、結論を言うと、それは自分都合で、実は誰に言っているのか、何が言いたいのか、一般の人には良く判らない文章になっているからだ、という。

「という」と言ったのは、自分では気が付かないそのことが判るのが、悲しいことに家内に見せて「どうだ、これで送ろうと思う」と言った時に、同じような言葉が返ってくるからだ。

家内いわく、「この記者のことを調べたの? 相手にされないかもしれないわよ」と。

事実、ネットで検索したら少ししか出てこず、それもどうやら演劇、ミュージカル、コンサートなどの評論が主な仕事のようだった。

やはり違いそうだ。文化、芸術でも、デザイン、建築、都市景観等だったら、どこの誰に言えばいいのだ?

文化庁? 宮田さん? 彼なら知っているが、知りすぎている面もある。それでも原稿を協会理事たちに見せて、合意があれば送ろうか。