@「リア王」と「寅さん」と日本紹介

リア王」と「寅さん」と日本紹介                

年老いた、しかし気性の激しいブリテン国の王リアは、その王国を三人の娘に分かち与えることを決心し、実行に先だって自分への愛情の程を確かめるべく、一人ひとりにそれを言わせることとする。すると、長女のゴネリルと次女のリーガンは欲に目がくらんで美辞麗句を並べ立て、老王の気をよくさせる。ところが末娘のコーデリアは率直に自分の本分をつくすばかりと答え、王の逆鱗に触れ、それを承知で受入れてくれたフランス王のもとに身一つで追われるように嫁ぐことになる。
ところが二分化された領土と王国の実権を手に入れると、ゴネリルとリーガンは手の裏を返したように王に冷たくなり、しかも邪魔者扱いにする。他方、王の忠臣グロスター伯は、庶子エドマンドの姦計によって、嫡子エドガーを反逆者として追手を差し向ける。この主筋と副筋の交錯のうちに、ゴネリル、リーガン、そしてこの二人を手玉に取ろうとするエドマンドの野望が冷酷非道な仕方で実現される。
リアは道化を供に、嵐の中の荒野を咆哮しつつさまよい、グロスターは両眼をくりぬかれ、盲目のまま放たれる・・・。



話を知っている人には「何をまた、今さら」ということだろうが、これは偶然読んでいた中村雄二郎氏の著書「正念場」(岩波新書)に記されている、シェイクスピアの「リア王」の簡単なあらすじだが、それを断りもなく、少し自己流に書き直させて頂いたものだ。
最初にこのあらすじを記したについては、いわく、とても言い難い思いがある。
どうも現在の心境が、このような破天荒な話の組み合わせからの方が、判りやすいような気がしたのだ。そこで敢えて「リア王」に登場願ったというわけ。

ここには、恩や愛情の真偽、偽善、人間の非情から始まって、老人と老域にまつわる問題、更にはヨーロッパ人の考え方と日本人のそれとの違い。そして、このところ(この年になって!)頭を痛めるようになった、映像・演出・プロデュースの問題が絡みついて出てくるからである。これらが一緒くたに、「リア王」の周辺には詰まっているように思えたのだ。
中村氏の話も、演劇、演出の流れの中で語られ、なおかつ、「演劇での『リア王』ブームが世界的な〈高齢化社会〉の到来と密接な関係にある」と言っている。「シェイクスピアが宇宙性を与えた、『老人の悲劇』」は、晩節を汚すか、人生を誤らせ、そこから引き起こされる人間ドラマの恐ろしさと悲しさを著わして余りあるが、それは日本人には無いことか、といえばそうではない。



この際、古今のわが国の戯曲や物語や現実のことはさておくが、実は身近かに、スケールははるかに小さいが、このような例が起こっていて、「事実は小説よりも奇なり」ではないが、「小説程度には奇」であることが判ってきた。特にある程度の資産と権力を持つ者が、老いてますます自己保身からしか判断出来なくなり、人を客観視出来ない場合、裸の王様は遂にはその裸身をも削ぎ落とされる。資産も権力も持ち合わせていないからいいようなものの、老残な姿は下手をすると明日はわが身だ。高齢化社会では、ミニ「リア王」は身近かなどこにも起りうる。他方で、利権があればそれを掌中のものにしようとする者の、限りない権勢欲、金銭欲とは一体どこから生じるのか。もちろん自分が常に比較し、比較されて来た「王」の権勢に並び立ち、それを越えようという、人間のサガがそれであるのは分るが。これは人間は、自分の内在能力の限界は見えないということか。


リア王」の舞台演出に中村氏が並々ならぬ関心を示しているが、こちらは何も観ていないのだから、何とも言いようがない。それでもキリスト教国と日本という対立図式からの意識も加担してか、中村氏のタイトルの通り、ここは「正念場」の気持ちがある。「老人の悲劇」は、この日記だからこそ、ビデオ制作などの話とミックスして個人の意識下では一緒に混濁してある、などと暢気なことを言えるのだろう。
以下は、そういうことだから、「リア王」周辺からしばらく離れて行っても仕方ないだろう。限りなく演劇や映画のテーマにされてきたであろう、「リア王」をヨーロッパ精神の姿として仮託してイメージだけを想定してゆくこととして。



そこで、過日の「新日本様式のパリ紹介ビデオ」の体験から映像制作の話だが、映画にしろ、ビデオにしろ、あるいは演劇にしろ、人間が出てくるストーリーは、まずその話の内容が問題だが、次にそれを言葉、仕草、視覚映像でみせるのに、大変な経験的蓄積が要求されてくることが判る。「リア王」も凄いが、そこまで行かなくても、例えば山田洋次の「寅さん」シリーズだけでも、実に色々のことを教わることになる。

話がどんどん飛ぶが、昨日がBS2の「アンコール寅さんシリーズ」5作品の最終日だった。別に寅さん映画から学ぼうと思って、見ようとしたわけではない。
一昨々夜に知人と身内の会食の席があって、偶然、彼らが「今夜は早く帰って、寅さんをみなければ」「おや、私もですよ」から始まって、ひとしきり寅さんで持ちきりになったことが発端だ。
寅さんは見ている。内容も5,6作品は知っている。10年以上も前に、日本工業新聞でプロダクト・デザインをテーマに写真シリーズで話を書くページを受け持って、週一回で数ヶ月続けたことがあった。この時にも寅さんを語り口にして、何かの商品デザインを語ったこともある。寅さん映画なら知ってるよ、というのが自分のスタンスだ。たった5,6本でよくも自信をつけたものだが。
しかし、家内が見ようというので、また、ついつい観てしまった。それもアンコール1位の「寅次郎ハイビスカスの花」。もちろん、封切の時にも見ている。


ここぞという時にタイミングを逃す寅と、リリー(浅丘るり子)の関係が主題だが、今回は特に渥美清の仕草や表情に感心しているのを避け、ストーリー展開、カメラアングル、テンポ、カットの仕方、ナレーションや音楽などに注意して見ることとした。そうしたら・・・
やはり、感心することが多かった。山田洋次本人が脚本を書いてるし、メガホンを握って、カメラアングルを決めているだろうから、何本もの経験から、一人の監督がその掌中にすべてをコントロール出来ているのだろうが、ひねった映像はないが、作品の基本になるようなテクニックは素直に出ていた。特に脚本の旨さは改めて確認した。リリーが「寅さんと一緒にいてもいいわ」という言い方だったと思うが、このやりとりと、最後に駅で見送る時に、さくら(倍償千恵子)が、そっとリリーの本心を尋ねるシーンの対話とセッティングは見事。
イントロの江戸の捕り物は白昼夢とさせ、追い詰められて例の「生まれも育ちも柴又よ」の啖呵を切ることで、本番に繋げている。それだけでも、夢から醒めたで済むが、呼子を外で遊ぶ子供たちの追いかけっこで鳴らす笛と一致させ、現実との接点を創っている、とか、なかなか周到だ。航空機の轟音、港の汽笛、おばあちゃんのけだるい蛇味線と歌なども。沖縄の暑い夏のイメージを出すのに、セミしぐれをたくさん使っているし、見下ろし、見上げのアングルが多い中、そこに写る赤い焼き瓦の屋根は、かなり意図的に沖縄色を出すのに利用されていると見た。



さてまた、「リア王」との接点探しになるが、この残酷なヨーロッパの話に比べて、「寅さん」は、何とウジウジと小市民的なのに、またそれが共感を呼ぶのだろうか。
言うまでもない。日本の風土はこのようにして人心を育ててきた。それは大多数の庶民の貧しさとも繋がっていたが、今の日本はそうでは無くなった。
何を持って合理的と思っているのかよく判らない人種が、単細胞的に事態を押し切ろうとしているし、苦汁もなく利権と金権になびく風潮も増長されている。ミニ「リア王」の世界は、今や庶民の中でも現実なのだ。

フランス人、あるいは20世紀になってからのヨーロッパ人種の知の交流と情報の発展は、ある種のヨーロッパの考え方を育てて来た。そこへあらゆるものを無条件に優遇輸入した日本人の無定見さと大胆さには今更ながら驚くが、今、改めて今度は日本からヨーロッパに何かを紹介するとなった時に、既にこのようにミニ「リア王」も当たり前となった国から売り込むには、よほどフランス、あるいはヨーロッパ自前の問題と同等位に考えてかからないと、相手にされないだろう。
前述の中村雄二郎がパリでの講演(1997)で述べていることを、また勝手に再訳させてもらうと、「(『みんながそうするから、そうした方がいい』という〈主体なき権力〉への帰属は)、たしかに過去においては、日本の社会と文化のアイデンティティを確立し、維持するのにきわめて有効であった。しかし(世界的にも―イスラムユダヤ教キリスト教間の不寛容に代表される―新しい状況の中で)、諸外国やその文化という他者との間で開かれた対話を行なう上で、つまり真の自立を達成する上で、大きな障害になる・・・真の自立を達成するためには責任体制を明確にすることが急務になるのであろう」(同上書P66)と言っている。



失われかけた自然風土の姿としての「寅さん」は、むしろ一番日本のオリジナリティを表していると言えなくもない一方、これでは「みんな判っているよね」で終わるだけでしかない無責任体制の温存とも取れなくも無い。
「新日本様式」は人心の「様式」までも範疇に入れているとは言い難いが、たった7分の映像を制作するとなっただけでも、このようなことまで意識しないわけにはいかなかった。そしてそれは、それなのに、やはり風土をベースにした人間味を説くしか出来なかった。「じゃあ、寅さんと同じじゃないか」と言われそうだが・・・。でもプロデュース過程のどこかでは頑張ったつもりなのだ。

そういう意味では、協力して考えに考えたナレーションとテロップの方は、最後に事情のよく判る在日フランス人に日本語を更に変えてもらったことも幸いして、何とか「輸出力」を発揮してくれないかと願っている。明後日19日にはパリ三越エトワールで放映される。
明日は、せめて、このナレーションとテロップを紹介したい。