@「美しくする」と言うだけでは何も起らない日本の問題

  *「美しくする」と言うだけでは何も起らない日本の問題

   (産業政策と個人)                       

いきなり話が大きいが、聞いて貰えれば有難い。
職務や、これまでの役職上、このような議論が行なわれるのだ。

国として見れば、対外的な領土、利権争いによる戦争がなく、国民が不安無く食べて生きれて、「健康で文化的な最低限度(以上)の生活を営める」(憲法条項)のであれば、舵取りはまっとうしていることになろう。
以下、ちょっとステレオ・タイプな見かただが、そう断言して言い切ってみよう。

この国の民のために行政は、政策、施策を通して、まとまった組織体系(財界、大企業、大学、大きな社会法人等)に「降ろしてゆく」が、これゆえに、この流れは「個人」にまでは届かない可能性が高い。また一般社会人にあっても、「個人」という政治的単位も十分認識されて来なかった。これが上意下達、心情お上、皆が同じことをやろうとする国の体質である。
もう一つ、産業育成、富国強兵、国際経済競争力強化、という一連の国策から見れば、「生活に必要なものが売れてなんぼ」の世界であって、ここには文化など関係がない。このために日本は、ここまで経済大国になったが、モノでない「ソフトはただ」という体質を生み出した。
さらに、情報化、映像化、価値の多様化は、省庁間の主体性、あるいは独自性もぼかし始めている。その上この国の民は儲かれば良いときめつけるほど単純ではないだろう。つまり国体としての方向性がみえなくなって来ている。しかもそれを改革出来ないでいるのだ。

これらとは全く反対に、国も地域も「個人が居てこそ」という事実もある。
個人の創意に期待しないことには新しいものが生まれ得ない状況に、この国が来ていることが実感され出したのだ。
「デザイン」という分野の基本は、個人の才能から出発している。このために、このような分野の人間から見ると、「個人」の見えない政策、施策は、何をしようとしているのか判らない場合が多い。
で、「デザイン」(業)に代表させたが、その設定背景には以上の流れに沿った訳がある。
この分野は国のイメージ政策にまで関りがある一方、「ソフトはただ」という実害をまともに受けている分野だからである。繰返すが、創造の原点は「個人」であり、その意味での知財権が保護されなければ、経済単位としての創造する個人はいないのと同じだ。
その上、産業文化分類でも横断領域にあるため、各省庁にとっては扱いにくい分野であることが、国の文化的綜合視野の中で浮き彫りになってくるからである。
現在はこのような「踊り場」の上に、官民共に産業政策の提示をしている、ということの理解が大切だ。

なお、ここで言うイメージとは抽象的なものではない。ある画像に収斂されたものは、他とは区別される個別なものだ。ここに「個」、あるいは「個別性」の存在が認められる。また、「画像に収斂させること」自体がソフトである。
また、省庁が直接には個人の問題を扱って来なかったことに、まさしく「個人」の問題が出てきた、ともいえる。

産業政策と「デザイン」の問題は、このように、個人の位置づけを巡って揺れ続ける。
今の経済産業省国土交通省から見れば、個人は面倒な存在だ。文部科学省から見れば、個人は、大学教授などの学識経験者かいわゆる文化人、あるいは伝統芸能人程度の認識ではないのか。
従って、経産や国交省でデザインを語る場合、「個人」あるいは個人能力を持ち出すと、相手にされない可能性が高いだろう。そこでこのことを承知で行政にコミットする者が増える。民間でも同じことだ。
そのこと自体は問題ではない。問題は「デザイン施策」は立法やシステム設計だけではないということだ。「美しくする」と言うだけでは何も起らない。「美しくする方法と技術を持った者」が「それを実行する」のでなければ、「現実に美しくする」ことは出来ないのだ。
行政にコミットする者で「デザイン実務能力」があるかどうかは大きな踏み絵である。私の見るところでは、「コミッター」の殆どはデザイン実務能力とセンスに欠ける。この両方を個人の内に備える事は至難の技だからだ。だからこそ「コミッター」になっているのだと言えよう。
そこで改めて、「表現出来る『個人』の存在」の扱い問題が立ち現れて来るのである。

最初に述べた通り、今日まで、産業政策の視点から見ると、「個人」という視点は無く、デザイン行為の個人に関る「重い表出」は理解されず、ソフトの重みを理解しないがために、「ソフトはただ」の世界へ流れてゆく。どこを経済評価すべきなのかがわかっていないのだ。
これが「美しい国、日本」の一面、というより、かなりの現実部分であろう。