東京デザインセンターの花見会とマリオ・ベリーニ

東京デザインセンターの花見会
 そしてマリオ・ベリーニ


3月29日にワッと桜が満開となった。確か翌日の金から土曜日31日が花寒でブレーキがかかり、4月1日の日曜はよいお花見日よりだった。
2日の夜は、東京デザインセンター(TDC:五反田駅前)の花見会に招かれて楽しいひと時を過した。

この建物は珍しくマリオ・ベリーニの設計で、僕の個人的な趣味で、ある合点がゆく設計となっている。
エントランスは傾斜を利用して階段状の吹き抜けギャラリー(最後に説明)を設け、その先のアイ・キャッチャーに鋳造か、板金加工かわからないが大きな馬の像がある。馬の雰囲気は彫刻家マリノ・マリーニだ。
ところどころに渡り廊下を設けて左右の建物を繋げている。
表は単なるビルに見えるが、この裏側が凝っている。5階からだろうか、セット・バックをさせて外部回廊がある。
このあたりから見るライトアップされた桜は最高だった。
もちろん、階段ギャラリーから馬を通して見上げる桜も素晴らしい。
この建物はポスト・モダンも来た賑やかなころに出来たのだったと思うが、いわばニュー・モダンの典型だろう。

オーナーのFさん(公知の方だが、本人の了解がないのでこう呼ぶ)は美しく和装で、接待役にお忙しそうだったので、つい聞き忘れたが、ベリーニはこの桜の満開の美しさを承知だったのだろうか。それとも桜の時期に下見に来たのか。あるいはFさんが設計依頼する時にこのことを説明し、プランに盛るように頼んだのか。
どうみても、満開の桜を宛て込んで設計したとしか思えなかった。
竣工時は、このギャラリーはライトアップされた馬を外部から見せる仕掛けとして考えたものと勝手に思いこんでいたが、そういえば当時から馬の背景には緑があった。

ベリーニは、あれだけイタリアにいた僕なのに、一度も会った事がない人だった。70年代当時からソファやイスのデザインで卓越した才能を見せ、ちょっと偉くて近づき難かった。
もう一つ、事務所の所長カルロ・バルトリが学者肌で、それほど社交性がある人ではなかったことも、人脈が広がらなかった理由かも知れない。

70年代は現在の家具市場を席巻する有名家具が出揃った時期で、毎年のサローネ(巨大な家具展示会。最近は日本からもツアーや出展も多い)が楽しみだった。毎回何か冒険的な出品があり、その多くはこの時期に消えていったが、ここで残ったものが現在のイタリアン・モダン・ファーニチャー群である。
この時期にイタリアに居たことが、今では夢のようでもある。この時期、ベリーニの他に認めていた家具デザイナーにヴィコ・マジストレッティがいた。この二人の才能には本当に惚れたものだ。

さて、TDCの建物の設計を珍しくマリオ・ベリーニがやったと書いたが、知る限りベリーニは殆ど建築設計の機会に恵まれなかったようだからだ(アラブあたりのことは知らない)。日本ではここと小淵沢(長野県)にリゾート・ホテルがあるが、むしろ日本でしか目立った建築が出来なかったのではないか。ほとんどは家具設計に終始していたように見えた。
もとより家具で見せた才能から、建築もやったらどうなるかは推定できたが、こういう仕事の仕方が僕の夢でもあった。

イタリアでは多分現在でも、大きな建設工事は非常に少なく、それが建築家を内装替えや家具・照明器具などの設計に向かわして来た。余談だが、このため、この国では家具デザインも建築も一緒にして「アルキテット」と言う。これは「アーキテクト」のイタリア語なのだが、習慣上、「デザイナー」という言葉があまり通用していない。ひとつには建築家やデザイナー自身がこの言葉をあまり好かないからだろう。「デザイナー」のイタリア語にあたる「ディゼニアトーレ」という言葉はあるが、この語は日本流に言うと「ドラフトマン」、つまり製図をする人という意味になるからだ。

それはともかく、ベリーニはラッキーにも日本で大きな仕事を得た。それが「珍しく」という意味だ。
Fさんご夫妻は、こういう意味でも日本(とイタリア)のデザイン文化に大きな寄与をしている。



【説明】 ギャラリー(イタリア語では「ギャレリア」)とは、ここでは屋根がガラス等の透過材で覆われた吹き抜け状の外部通路や広場の呼称と理解している。画廊の事ではない。ここは確か、上部には居室があったと思うので正確にはギャラリーとは呼べないかも知れないが、イメージが通じればよいので、そのままにしておく。ミラノのドゥオモ広場の北側にあるギャレリアが有名であり、そこから一般名詞化したと思われる。