*「イヴの総て」

*「イヴの総て


どういう風の吹き回しか、また映画の話だ。
見たものが、いけなかった。
でも、ゴールデン・ウィーク中なら、それも有りか。

イヴの総て」はあまりにも知られた題名で、古いが、見ていなくても、いい映画だったことは知っていた。ということで、見なくてもいい映画に区別してしまっていた。ところが大違い。1950年、全米アカデミー賞6部門受賞というからほぼ独占であろうが、それだけのことはあった。
また映画の話になったのは、去る1日の「ホリデイ」との比較が生じてしまったこともある。
映画にばかり振れても、デザインに益になるとは限らないが、どこかで繋がっていることを願っている。

こちらは60年前の成上がり女性の生きざまが主題なら、「ホリデイ」は60年後の失恋女性の心理が主題。タクティクスとイメージ。階段とプールほどの違いがある。こちらは白黒。しかしその筋運びは目をそらさせない。DVDカバーにいわく、「見事な脚本と、名優たちの火花散らす熱演とが融合した、バックステージものの最高作」。まさにその通りだ。
凝った脚本はヨーゼフ・マンキーウィッツで、監督もこなしている。当時の映画制作でも、白黒という以外、現在の撮影映像と比べても技術的に問題なかったのだから、内容だけの勝負になる。そこで、人間心理をえぐった脚本と、体全体でのオーバーアクションでないだけに表情などに懸かる演技力がいかに凄いかが分かってくる。ベティ・デイヴィスアン・バクスターの二人ががんばっている。

この映画の作られた時代(制作は1950)は、第二次世界大戦が終わって(1945)、解放感に満ちていた時だったのだろう。ハリウッド映画が興隆に向い、時代はテレビの登場によって一段と情報の映像化を進めていた。
この映画には黒人は一人も出てこない(ようだった)。われわれが英語の教科書で感じた、よきアメリカの時代、アメリカン・ドリームが現実にあるような時代だった。こういう時代の演劇界裏のゆすりやたかりがどんなものかをこの映画は描いている。

この時代のハリウッドがいかなる街だったかは、去年話題があった「ブラック・ダリア」のイメージ・ベースになったといわれる「ブラック・ダリア事件」(1947)の真相を描いた出版書に詳しい。(「ブラック・ダリアの真実」上下、スティーヴ・ホデル、ハヤカワ文庫)。この書に特段の関心を持ったのは、著者の父親がマン・レイと交流があったらしいからだ(マン・レイについては拙著「デザイン力/デザイン心」参照ありたし)。そして、読んで行くうちに、この時代のロスアンジェルス地域の裏事情を知ることになった。そこにはこの父親を頂点とする乱脈なエロスを伴った犯罪の世界があった

イヴの総て」には、このようなイメージは全くない。ただ戦略として男を利用してゆく女を描いているだけだ。それでも、今でもこのようなやりかたで有名人になろうとしている男女がいても(もちろんいるだろうし、もしかすると大部分なのかも知れない、などと邪推もしてみるが)、ここまでやるのかね、と思ってしまう。つまり十分、現代的なのだ。加えて、その当時の社会状況が本質的に現在と少しも違わないとなれば、1950年代は十分、「今の時代」なのだと思えてくる。