モジリアーニ                                   

―西武セゾン文化村で開催中の、モジリアーニと妻ジャンヌの展覧会を,「敢えて見て」―


モジリアーニの絵を見ると、いつもいたたまれなくなる。
なぜかは自分では判っている。
だから、どうも見たくない。


青春の一時、自分の人生が一望できる一瞬がある。
この時、僕は見た。
絵を描いていて生活出来るなら、僕だってやれるに違いない。


しかし親も周りも、学校も、「絵なんか描いていても食えないよ」が、公言化していた。
そこに実際、食えない絵描きの話ばかり。
モジリアーニが結核で苦しんでいたなんて知らないから、ジャンヌの自殺と合わせて、絵を描いて生きる事の悲惨さに結びついてしまった。


モジリアーニの絵と人生は、もし自分が絵を描いていたら落ち込んでいたかも知れない奈落を代弁しているように思えたのだ。


モジリアーニの精神には幾何学的なところがない。すべて情感だ。
この世の構造がかくも幾何学的になってしまった時に、モジリアーニの生きる場所はなかった。


ジャンヌ。君は精神を病んでいたのか。なぜ、自殺なんかしたのか。どうも、生活への苦しみと言うには何か違うようだ。自殺する時、母親の元にいたようではないか。子供もいたし、お腹にもいたというではないか。母親の助けを得て、何とか食べていけたのではなかったのか。


そうか、そんなに夫のことを愛していたのか。その愛の深さには恐れ入る。
確かに20世紀初頭の耽美主義は世を蔽っていたのかも知れない。
機械時代の到来に、わけも判らず恐れおののいた精神のある時代だった。


近代の混乱の中に、教育も先達も、僕らに芸術に奉仕することによって、経済社会に生きて行く道を示すことは無かった。
才能と情感に恵まれ、その力に圧倒されたアメディオ・モジリアーニには他に選択の余地は無かった。


ジャンヌに似ていて、ジャンヌのようにむせ返る青春を生きる少女を僕も知っていた。
高校への通学路にあったその子の家も、親は画家だった。
僕は何度もその子の視線を浴びながら無視し続けた。
単純に怖かったのだ。
その子と仲よくなれば、僕は途端に奈落に落ちることを知っていた。
そしてその一線を越える事が出来なかった。
僕の周りには、愚直で働き者の父と、優しいばかりが取り柄の母がいて、その他は地方で大学受験至高の環境しかなかった。
それはそれで美しい風の流れる、孤高の世界があった。
僕は青春の愛と情念の一切を封じてしまったのだ。


アメディオの苦しみの人生は、多くの柔な画学生の讃仰と反抗を呼び起こしたと言えよう。