*@後藤新平の周辺

後藤新平の周辺


去る日曜夜のNHK3CHのETV特集で、東京を造った後藤新平(1857〜1929)のことを放映していた。
後藤新平と聞いただけで、何の人か、いつ頃の人か、何を言い出そうとするのか、と思う人も多いだろう。


毎度のことながら、パリ計画のオースマンなどについては大学の授業でもチラチラ話してきたが、僕も後藤新平については殆ど触れて来なかった。
理由の一つが、当方の不勉強もあるが、この時代と後藤についての情報が拡散していて、散漫だったからだと思うが、これは理由にならない。
大正、昭和と舶来趣味続く中で、僕も含め、僕ら世代から上が、国内事情より外国事情に関心を持ってしまったことも大きな不幸である。
それでも、もう一つ言えそうな事がある。 ここからは推測も含む。


それは後藤新平が最初から、都市計画や建築、土木工学(もちろん、後藤が学んだ当時、そのようなはっきりした教育も職業もなかったはずだが)、あるいは棟梁といった世界から入ってきたのではないわけだから、分類的に、都市計画家、建築家、デザイナ―の分野方面の人間と見ることが難しいことが影響しているのでは、ということだ。
つまり、どのような人物か、一言で言い表せる職業分類が見当たらないのが後藤の存在だが、敢えて仕切れば、政治家となる。その結果、彼の精神に在ったクリエイター的なところは顧みられなくなってしまったのではないか、という気がしてならない。


しかし、一旦政治家として仕切って見ると、今度は、現今の政治家のイメージとはまた大きく違い、遥かに独創的、マルチチャンネルを持った後藤像が浮かび上がってくる。まさに明治人である。ここに現今の建築家やデザイナー、あるいは一般の政治家とは違う、考え方と行動の広がりがある。ここが大きく評価されていない。



ただ、当時は社会構造もある意味でははるかに単純だったはずだ。
後藤の出発点は医者である。内務省勤務から公衆衛生に目覚めてゆくことが、都市問題に開眼してゆくきっかけになったのだろう。台湾や満州の総監となり、実際の都市開発を実地で体験・指導することになった。このマルチで異分野の経験が非常に大切なのだが、キャリア官僚や少なからぬ大学教授に見るまでもなく、現代ではほとんど許されないのだ。


その後、東京の再開発に呼ばれ(1920)、ETV紹介では8億円(当時の国家予算が15億とか)という東京改造見積りを出して、「ほら吹き」と言われ、実行が疑問視されていたところに関東大震災(1923)が起きた。恐るべき強運である。




その後藤も1890年、33才の時にドイツ留学している。夏目漱石がそうであったように、彼もヨーロッパとの落差に愕然とした方なのだろう。そのことが東京の開発も近代化一本槍となったことを十分想起させる。その慧眼と、国を思う柔な気持ちは生々しい。


現在も基本になっている東京市街区の道路網や公園、同潤会アパートの建設などは、後藤の手腕とされるが、多分震災の前からすでにこの計画の線引きの際には、あらゆる旧来の建物や史跡でさえも断ち切る勢いだったに違いない。
この、東京の大都市問題としての課題は、大震災によって気にしなくてよいこととなり、その分、後藤の新しい価値の創造者としての力量を問われることもなくなったに違いない。
ただただ内務大臣兼帝都復興院総裁という、ものものしい肩書きだけが行政吏としての彼の行為の全価値を言い表すことになったのだ。


テレビでも取り上げていたが、「金(カネ)を残して死ぬのは下、仕事を残して死ぬのは中、人を残して死ぬのは上」という中にも、人本主義への視座がうかがえる。政治家の視点としては当然のヒューマニズムであろう。そこに表徴としての表現(デザイン)対象への擁護認識が見えにくいのは少々残念であるが、過大要求というものだろうか。


紹介者も言っていたが、十分食べていける身分になりながらも、難しい事に挑戦してゆく後藤の精神は、僕らがよく学ぶ必要がある。
明治はそれほど、人材の個人的発露にオープンで、個人はまた、どこで得たのかわからないようでありながら、強い信念を持っていた。トップグループが、家柄や、資産状態であるより、個人の信念を高く評価したかにみえる明治はやはり偉大な時代だった。