*@現代のイメージ構築について

*近代の超克と、現代のイメージ構築のありかた

―求められる各職能別エミネンスの経済評価―                   



鉄骨とガラスの箱の建築家ミース・ファン・デル・ローエの評価が高い。
僕自身、自著で真っ先に取り上げたくらいだ。
販売中の新築マンションの接客サロンに、ミースのビデオが流されていたことを思い出して、また意識しだした。このところ、ずっと考えている「現代のイメージ論」の骨子のことである。・・・今日の日記はだいぶ専門的で難しくなる。


ミースにとっては、時代の要請に合った、エッセンシャルな表現法に固執していたら、いわば偶然に評価され出した、というのが実感なのではないか。
偶然というのは言い過ぎかもしれない。彼は自分なりの冷徹な歴史認識で、自分の仕事を選択していたと言うべきなのだろう。
しかし、もう一度考えて見ると、こう言ってしまうと、現代が高らかに打ち立てた近代的個性評価の追認でしかなくなる。


ミースは、やはりその時代にあって必要とした近代史の代弁要素であって、その役者はミースでなくてもよかったのだ、と言うべきではないか。それが近代の超克ということではないのか。


ミースはまぁ、いい。
なぜ、こんなことを言い出すかと言えば、振り返って自分と身の回りを見ると、いかに多くの建築家が、この「近代の呪縛」に囚われてきたかが、ミース時点での純粋さでわかるような気がするからだ。
ある者は、身勝手な理論を打ち出して設計の社会性を混乱させた。ある者は住めないような構造物を造って、社会のスクラップを増大させた。そして少なからぬ設計のリーダーたちは、自分都合の行動で職能全体が必要としている底上げや社会的認知への責任を放擲した。
これらは、すべて「ミースのようでありたい」という一心から生まれたものだ。


時代はその変化の早さと、技術力の急拡大によって、多様な表現に対して許容度を増してきたから、一見、それらの理論や行動が、もっともらしく見える時があったのだ。
現代は、そのような多様化の時代であればこそ、ミースの時代とはまた違った社会の要求があると考えるべきだろう。
特に、近代が置き忘れた地域性をも考慮に入れた時、日本人と日本の社会システムを無視して語るわけには行かない。


こうして見ると、「現代が必要としているイメージの表現」に対しては、おのずと、そのために日本の社会に潜む問題構造の解明と、イメージ形成上の問題点の指摘が準備されなければならなくなる。
ここからは専門領域の研究になるので日記に書くようなことではないが、荒筋だけをプロットしておくと以下のようになる。


1:上から押さえつけるように与えられた輸入借用技術と知識の普遍化と施行、そこから生まれた、押し付けられて出来上がった専門観による職能の枠取りが現在の日本社会の構造を仕切っている。これに対して、内発性と自主研さんによって形成された各職能の経験の大きさ(高み=エミネンス)からの社会構造のあり方が問われ、承認される必要がある。それは主に経済構造の中で決定される必要がある。
2:イメージ形成上の問題点としては、次のようなことがある。
   1)特に教育において、イメージの自然な発露がゆがめられている。
   2)一代で完結出来るような創造対象(例えば絵画)なら、借用したものの自己検証も可能だろうが、数代に渡ってしか見えてこない対象(例えばまちづくり)では、検証の仕様もない。
   3)日本語:言語文化が与える影響(平仮名、カタカナ、漢字の混用がもたらすロス。表現の綾、気候の言葉、礼儀に関する言葉などの多さと約束事の多さ。文法のあいまいさなど)から、仕分け学習に時間を取られ過ぎ、言葉以外のイメージを深く膨らませられない。
   4)突然に訪れたコンピュータ映像メディア社会の管理が出来ず、「何でもあり日本」が無定見のまま受入れられてしまった。
   5)経済の市場原理主義からの観点を正当視することで、イメージ形成の内発性を無視してしまった。


この障害または抑止力を承知して乗り越える時、ここからが現代のイメージ形成の始まりとなる。
制約条件ばかりに気を取られるのでなく、クリエーションによって、素材と構造、あるいは仕掛けをみつけ得た時、表現行為はひとつの仮設の証明となる。
研究論文なら、これでいいか。


具体的には、経済行為に裏打ちされた上での表現のエミネンスを維持することが重要なキャラクターとなり、表現対象や分野を個性の表現対象と捉えるべきではない、ということだろう。