背広で踊る「白鳥の湖」                                 

―オーストラリア・バレエ団来日公演から―


([Swan Lake] danced with business suit―from the public performance of Australian Ballet)



バレエというのはどうも好きになれない。遠慮勝ちに、はっきり言うが、その理由は、ある種の形式主義のせいだと思ってきた。
事実、ボリショイバレエ団の公演などを見てさえ、ダンサーの技術のお披露目場、言葉はきついが、ラジオ体操のような仕草、様式化した舞台美術、伝統に則った筋運び、気になる男のタイツと、どれを取っても、いささかうんざりするものがある。やっと我慢できるのは、部分的に良く出来た振り付けや、演技が際立ちしかも美女だったり、ひとえにチャイコフスキーのような作曲家の甘美なメロディーが流れる出し物のときだ。
でも、人体美としてのバレエには昔から関心があって、日常生活でもバレエ・ダンサーの無駄のない肢体、軽快な立ち居振る舞いには常に感心してきた。それだけに、すごくもったいないような気持ちがしていた。


ところが、一昨夜(14日)、これが見事に覆った。
オーストラリア・バレエ団というのが来日公演していて、これを観たのだ。
白鳥の湖」のストーリーを熟知していたわけではなかった事もあって、序幕から混乱した。
設定は1900年頃のジュネーブで近現代のコスチュームだから、主役のジークフリート王子は軍服やスーツで踊る。

これまでの「白鳥の湖」の筋書きは完全に壊されていて、観客の関心と共に展開するという現代の映画制作手法に近く、それは筋書きだけでなく、フェイド・イン、フェイド・アウトから、テンポ設定まで映画的なのである。例えば、オデットは王室の命令でサナトリウムに入院させられてしまうが、ここで彼女が心を寄せる夢の世界は白鳥のような乙女たちで、それは湖の中なのだが、そこまではガラス間仕切りのサンルームで繋がっており、これがセットとして開き、壁が上がると湖に入っていき、戻ると閉まる(オデットはサナトリウムを抜け出し王室の夜会に現れる、などの出入りがある)。また、舞踏会などで主役が踊っている間のあるシーンは、主役を意図的に引き立たせるために廻りの者は凝固して動かない。画像の静止は拙著(「デザイン力/デザイン心」)で紹介した「去年マリエンバードで」も活用されていた手法だ。
全4幕は段々暗くなって行き、オデットの悲嘆が凝縮されるように演出されている。1幕は全体が避暑地のパーティのように明るく、3,4幕は秀逸なライティング効果(ダミアン・クーパー)のおかげでシチュエーションは明確に見えるがスポット以外は相当暗い。

なぜ近現代の設定にしてあるかについては秘密があった。
ここではオデットを誘惑する馬鹿げた19世紀の「悪魔」は不要になり、一方、オデットとの結婚式というのに、ジークフリードが心を寄せる女(ロットバルト男爵夫人)を持ってきている。オデットは三角関係の悲劇のヒロインとなる。ということで、現代的な嫉妬と恨みの物語になっているからだ。

ここまで言うと気付く人もいるかもしれないが、どこかで聞いたような話ではある。
これには振付のグレアム・マーフィーが、自ら種明かしをしている。これは「ダイアナ妃の悲劇」の、いわばオリジナル・イメージ版なのだと。
2005年の訪英公演時には、心配したのと反対に、「深く理解され、好意的に受け止められたと言っていい」(長野由紀氏)とのことだ。



マーフィーのこの驚天動地な発想は、一夜にして出来たものではない。
この「白鳥の湖」は、2002年9月にメルボルンで初演して以来、大喝采とチケットの完売が続いたというオープニングからの歴史を持つ。
チャイコフスキーのこの組曲は一般に信じられているのとは違い、1895になって組み変えられたものが定番化しているのだそうだ。マーフィーはこれを元に戻し、物語も、ダンスの内容や振り付けも根本から変えてしまった。
そして、何より、このマーフィーが元はダンサーであり、一緒に踊っていたジャネット・ヴァーノンと組んで振り付けの仕事を始め、途中から、美術と衣裳にクリスティアン・フレドリクソンが加わって、見事な創作トリオが出来上がったということだ。彼らはたくさんの創作バレエを手がけて、ある確証を得ており、2002年のオーストラリア・バレエ団の創立40周年記念事業として依頼されてから、鋭意取り組んできた成果だったのだ。
かれらはこれまでに数々の国際的な賞を獲得している。いわばオーストラリアが、ヨーロッパの借り物でない芸術を生み出した一例なのだろう。



僕たちの座っている席から5〜6メートル先に、カタログで紹介されているのと極めて似た、ツルツル頭の親父が居た。休憩時間に聞いて見たら「私がマーフィーです」と言うので、とてもいいと言ってサインを貰った。もしかしたら両隣りがヴァーノンとフレドリクソンだったのかもしれないが、このトリオのことは後で知った事だ。


今回、改めて納得したのは、舞台全体の印象はテレビでは分からず、主役たちの動きや表情はオペラ・グラスで覗いていないと判らないということだった。
会場にいて観客と一体となって拍手したり、幕合いを待つ、休憩時間に一杯飲んで、知人たちと、作品の出来について談笑する、ということが舞台芸術の醍醐味であり、これはホームシアターや映画館での鑑賞とはまったく違う。特に女性は、イブニング・ドレスを着て異次元に遊ぶということも加わっているが、見渡したところ、美しく着飾ったような女性は殆どいなかった。
もっとも電車に乗って1時間以上はかけて見にくるのだから仕方がない。終わったらゆっくり夕食を、などと考えていると、レストランはラスト・オーダーになり、終電に駆け込む事になる。もとより、会場の東京文化会館を出るとJR上野公園口で、そのまま帰るにしても味気ないことおびただしい。
これはまさしく、ゆとり生活への施策と人心の問題であり、街づくりの問題である。


感心ついでに、結末を述べておく。
物語の最後は、男爵夫人の仕向けたサナトリウムの収監吏の追求から湖に逃げたオデットを、探しに出かけたジークフリートが見つけ結ばれるが、追いかけてきた男爵夫人に発見されてしまう。オデットは、「たとえ夫の腕に抱かれていても、自分の傷ついた心が癒される日は決して来ないことを悟る。もはや白鳥の暗い湖の水底にしか、永遠の安息の場所は見出せなかった」(公演カタログより)。
舞台は暗闇に消え去るオデットに追いすがりつつも己が失態をどうする事も出来ず、頭を抱え、天を仰ぐ、ワイシャツ姿の王子にスポットを当てて終わる。