「太陽がいっぱい」と「遠い国から来た男」を一緒に見る。

太陽がいっぱい」と「遠い国から来た男」を一緒に見る。                 


(Seeing old movie [Plein Soleiu]of Alain Delon, and new [Man from the far destant country] directed by Taichi Yamada, together)




――(7月30日追記)――

このブログには映画、ビデオの話が少なくありません。
あえて説明してないけれど、好きだけでやっているのではなく、論理実証や言葉の世界だけでないものを表現しようとする時、どうしても映像の力を借りたくなるからです。
デザインはモノや空間相手で、直接人間行動に関係していないとも言えますが、それは背景を表現出来なかったり、意図的に消しているからで、実際にはデザイン行為そのものも、その対象も、人間生活の上にあることだと考えれば、受入れられると思っています。
なおテーマを大きく捉えると、この問題は「イメージとしてのデザイン論」になっていて、これは自己の研究テーマでもあると考えています。
何より、あらゆる分野を駒切れにして繋がりを無くしてしまったのが、近代以降の産業社会と文化でした。これへの反抗という視点も混じっています。
今後とも、この視点で書いていきますのでよろしく願います。
近いうちに、映像(描き込みスケッチ)も加えたいと思っています。
   
         ――――

ムンムンする夏の日。肌をなでる木陰のそよぎと灼熱の太陽。あまりにパカンと乾いた空気にしみるセミの声。静まりかえった海辺の館。波の音。そこには人生の虚無しかなかった…


どうして二つの映画を一緒に見ることになったかと言うと、去る23日の夜9時からのBS2とTBSが、同時にこの映写を始めたからだ。もっと言うと、「太陽がいっぱい」は過去4〜5回は見ているけれど、わが青春のノスタルジアとして、どうしても上映となると心が動き、止められない。僕のイタリア行きとなったイメージの原型がここにもある。「遠い国から来た男」は、山田太一の作品で、奥方の推薦だった。
僕自身がイタリア10年生活者だということは、山田太一のどこに亡国帰国者への思いがあったのかは知らないが、関心を持たずにはいられない。ただし、録画して見るような意欲はない。
覚悟して「太陽」の方を見始め、1時間した所でお呼びが掛かった。「あなた、とっても面白いわよ」。


で、1時間ちょうどというところは、トム(アラン・ドロン)がフィリップ(モーリス・ロネ)を殺し終え、マルジュ(マリー・ラフォーレ)は去り、というあたりだったから、華は見た。ストーリーは全部知っているし、微細なシーンもしっかり覚えている。この後の暗い隠蔽工作と逃避行を考えると、「遠い国から」の方を覗いてもいいかな、という気持ちになったというわけ。
新しく発見したことは、あのニノ・ロータのあまりに有名な主旋律が、ここまで殆ど抑えられているということ。何度見ても、ストーリー展開、テンポ、画面、どれを取ってもルネ・クレマンのセンスの良さ(彼は建築科の出身と聞いている)にはいつも感服するが、やはりアンリ・ドカエのカメラ無しでは済まされなかっただろう。


「遠い国から」は主役の仲代達也が、半世紀近くも前に、商社マンとしての赴任先の中米で反政府運動に巻き込まれ、12年の長い獄中生活を送った経験を持ち、その過程で日本を捨てたが、母の墓参を口実に帰国した男(雄作)を演じる。栗原小巻は、雄作が杉浦直樹と商社マン時代に取り合った(か、雄作が諦めた)女の役で、二人は現在子育ても終わった夫婦である。雄作はこの女に逢いたかったのだ。


シーンはこの夫婦が問答をしているところからだった。
夫は既に雄作に会っていて、妻は怯えたのか、その時には避けた再会を、ひょんなことから実際に、一人で会うことになるというくだりだった。妻は着るものに腐心し始め、若いガイドの手引きで人のいないライブ・ハウスらしきところでの再会となる。
この、雄作が結婚できなかった女が歌っていた歌に引寄せられ、青春が蘇る。
その歌は中国民謡「草原情歌」だった。
「雄作のひと言が、かつての婚約者とその夫の心も揺さぶり始める。重ねた年月の重み、思い出の輝き、大人の戸惑いと覚悟を、仲代らベテランがこれでもかと見せつけてくれる」(雑崎徹氏・朝日新聞「試写室」欄)。妻は土壇場で、雄作の国へ行くと言い出す。山田太一の脚本は実によく出来ている。


ところで、この二つの映画の解説が目的ではない。
洋の東西、アクション・ダイナミズムに秘められた人間心理、孤独、悲哀と、じっくり臨む過去への感傷、愛慕、惜別の情のぶつかり合い。この落差がとても面白かった。一方をよく知っているという事情はあるけれど、続けて二作品を半分づつ見ても何の違和感もない。むしろ、説明つけようとする映画と、余韻の情に任せようとする映画を一緒に出来ないか、と思ったりもした。つまり日本的で微妙な心理劇に、明確で眼もくらむような光彩が当る、とどうなるか。そのくらいのことを受入れるキャパシティを僕らは持ち始めている、と言えそうなのだ。