個性と客観性の落し穴で―軽い最近のメディア情報を肴に

(棚田康司の彫刻からデザインの未来まで)

(The trap between personality and objectivity―taking recent media inforomation as a side dish of the talk)
(From sculuptures of Koji Tanada to the future of design)

                      20070927最後尾追加                    

     
この主題は何度も取り上げてきたようにも思う。
断る必要もないとは思うけれど、引続き芸術と文化の話から。
このところこのブログでも何度か取り上げ、巷の話題もある彫刻の話から始めよう。


若手の一彫刻家を持ち出し、デザインを論ずるとは、一見、変った組み合わせだけれど、歴史の経過を経て、社会でそれなりに認知された人間活動は、認知による存在基盤があるが、そういうものがない新参の分野の仕事は、泥沼に礎石を築くような事態になる、という話をするためである。


一昔前、船越桂の仕事を見てから、日本の彫刻界にも新しい流れが可能になった、と思ってきた。そこへ更に新しい彫刻家の世代が来ている。棚田康司などもそこにいる。

確か6月2日のNHK・3CH「トップ・ランナー」で見たことだけれど、思った通り、棚田本人も船越桂を尊敬しているとの発言があった。
言っていることは極めて素直で常識的だった。それだけに嫌味がなくてよかったと記憶している。ブログにも書いたことだが、棚田のような造形傾向も彫刻界の現状の流れを示しており、船越桂が来た道の上にある。

最近の芸術・・・と言ってしまって良いか、言ってから悩み始めるが・・・に対する日本の若者の受け取り方と接し方には、なかなか共感するものがある。若い世代に媚びて言っているのではない。彼らは決して大上段に構えてはいない。棚田康司も例外ではない。
テーマと素材への葛藤、落ち着いて自分の心と経験に聞く態度、自分の創造に賭ける確信、それらを言葉に出来ることは良いことだ。

確かその前の晩、12CH(「美の巨人」)が戦争に巻き困れた世代の鶴岡政男を取り上げていたと思うが、彼らの時代と比較すると、社会背景も含めて、棚田らの時代がいかに芸術家にとって豊かな時代になっているかがわかる。これらを見てくると、本人の能力だけではない、時代の趨勢を感じざるを得ない。

何しろ日本人にゆとりが生まれている。そこにはもちろん、含み資産を持った、戦後の新しい価値観で育った団塊の世代の大量定年の出現ということもある。じっくり考え、感じる物理的時間も生まれている。そこから、「こんどこそ自分の感じる通りに生きよう」という自覚も生まれている。これがアートに目がゆく下地を創っているのだろう。
またこれに呼応してメディアが真面目に、このような、つまり芽が出たばかりの若者でも、立派に時間を取って番組を創るようになった。「美の巨人」も、現状でも話題性があるが,ここにはメディアが、とうとう既存常識の収録に行き詰って新開拓を始めた、という穿った見かたも生じてこよう。

更に言えば、このような流れのなかで日本人と日本文化に目を向ける事は、未踏査の宝の山に分け入ることであり、日本人のルーツを探るうねりにも合っている。
そういえば、この日(6月2日)の日経新聞朝刊は、「日本のシュルレアリズム」とし、古賀春江を取り上げていた。古賀などは、近年まで一部のデザイン史で取り上げるくらいでしかなかったのではないか。

もう一つある。若者が芸術を、何か遠大で尊厳のある、余人の近づき難いもの、狂気的な世界であるとは考えずに、身近な自己表現手段のひとつと考えるようになったことだ。
特に現代は、ポップ・カルチャーという言葉が代弁するように、文化そのものが軽い。情報化と、技術の進歩は近代の実験期を過ぎ、「重い芸術」を捨て去った。



こうしてみると、デザインも視野に入れた広範な視角文化がやっと社会的認知の途についた、と言えると思う。もっと言うと、IT(情報技術)の発展が、「ユーチューブ」の例に見るように、生活を互いに見合ってしまう情報の渦に巻き込んで来ている、という大時代なのかも知れない。

そこで話は戻って、彫刻、絵画だが、こういう時代になればこそだろうが、パターンの出来上がったこの世界は、デザインに比べると一般人には判りやすい。それはちょうど芸能における能、歌舞伎のようなもので伝統があるからだし、そういう実在感のあるものだと信じられている。あるいは相撲、野球の類もそうで、何をするのか、何が役目か、ファンやご贔屓層はどうか、といったことがかなり明確に判っている。
この世界で目を出すのは、それはそれで大変だろうが、「何と言っても下地は出来ている」と言えよう。

ということは、マーケットに対する戦略や表現すべき対象を、方法論的に考えることが可能だということを意味していよう。
棚田康司も、こう考えたかどうかは知らないが、現代の漠然とした不安への、もの言いたげ表情の具体的な付与(しっかりリアルな眼球を入れ、眼に潤いを与えるなどして不安の実在化を計る)、 それを裏付けるかのように豊かではない体としぐさの付与、そして確かな制作表現技術によって、空間のインパクトを増大させ得て、それなりの評価者(審査員など)の評価を勝ち得る、ということが計算できるのだ。



デザインはどうか。
このような時代の感性計算を、個人の創作のうちでデザインとして開花させられるのだろうか。
市場は流動的で、在って無いような実在感の無さだ。
何より、デザインは市場経済万能のビジネス観への協力者なのか、新しい生活感覚やオリジナリティの創造者なのか、も、よくわかっていない。
現実はこれを中和するか、割って入るような仕方で、「工学技術がデザインをイノベートする」という視点が受けている。わかりやすいからかも知れない。

デザインは、価値体系から言っても、これまで完全に分断されてきた分野の上に立っており、今、僕らが踏み出していることは、それらを繋ぐような大それたことを実証しようとしていることになるのかも知れない。
それだけに、基盤のないぬかるみから足場を造らねばならぬ努力が必要であり、協賛者が必要なのだ。