工芸科が主力となるか―芸大の今

【日記】      (20日に追記補談あり)


何とも言えない芸大の「ショウ」を見学した。


難しい時代の難しい大学である。
お盆休みは観光地のどこにも行かないという家内の都合と希望で、久しぶりに日本橋三越本店に行った。普段は縁がないが、ちょうどこの日に芸大(国立東京芸術大学。この場合、美術学部を言う)の教員諸氏がトークをするというので、合意して出かけたわけだ。今、ここで「三越×藝大 Art & Creation」というイベントが行われている。

去る11日にも述べたが (本ブログ「ファッションを下流に見る眼」)、 アート、デザインは今、大きな混沌期に入っている。日本の唯一の芸術系国立大学ということもあって、その進路や実績が問われていると言っていい。


トーク・ショー(開催記念シンポジウム)は、日本画(専攻)、油絵、デザイン、彫刻の各教授、准教授。それに美術学部長の司会。
このうち主調が明快だったのが日本画、専門性に触れて深めたのが彫刻の教員だった。
デザインは過去のある時点で工芸と別れ、建築科はトークに参加していない。デザイン科の教員はメディア・アーティストだった。出た話の中に、「写真科」があったそうだが数年でつぶれたという。いずれにしてもデパートに来る客を中心に想定しているはずだから、テーマは一般に関心が持てそうなら何でもよい。まとまらなくてもよい、という程度。


関心が持てたのは、どんな教員たちだろうと言うことと、全体として芸大をどうしようとしているのか、ということ、それに学生作品を展示即売してる展覧会があるので、これらを見て、自己の内に全体評価軸を持っておきたいということだった。


結論は、大学としての質のなんとも言えない状態だった。
一体に、芸術となると、個人技が軸であり、社会性や社会改革とはともかくも無縁である。芸大がその軸を油絵や日本画に置いてきた分だけ、一般社会との関わりかたが希薄だったのは明らかで、それを修復するかたちが、例えばこの老舗デパートでの「お披露目」のようなイベントなのだろう。
その意味で、学生作品でもそこそこ売れているようで、個人作家のデビューと「換金力」についてのスタディにはなっているようだった。メディアとまでは言いにくいが、デパートという「社会」を相手取っての戦略としては成功なのかも知れない。 


ところが、本格的にデザインや建築と言い出すと、とたんに社会性に大きく関わり出す。展示「作品」もデザイン(科)や建築(科)となると非常に少なく、仕事の社会性やメディアに訴える力などはまったく見えず、これなら工芸科と同じでいいのでは、と思わずには居られない。そして工芸科と同じなら、彫刻科とどこが違うのかということにもなる。ここで言うのも意味ないかも知れないが、貴重な先達を生み出してきた唯一の国立美大建築学科の存在感は見る影もない。
関東に限って言えば、武蔵野美術大学多摩美術大学はデザイン系が優勢のようにも見え、社会との関わり方が一味違う。言い換えるとこの大学では、社会との繋がりについては、個別の個人創造による「作品」を社会に提示して、例えば「ある美」についての経済評価を受ける、というのが教育内容であるといえるだろう。


各科が近似しているどころか、入学すると学生が勝手なことをやり始めるとのことだが、それが「ほとんど境界無視」なのだという。当然、現代美術が解体して久しい中にあっては、境界など、どうでもいいことになる。そしてそれでは、「全く何をやっていいか判らず」、せめて入試ルール化されたデッサン力頼りの造型に頼るしかない。そして、それでは全く「食えない」。その一方で、豊かな情報と、最低限食える環境で育ってきて、命の危険にさらされたような経験もなければ、勢い、「何とかこの手仕事技術に近いところで食えるようにならないか」という常識路線に落ち着いてくる。この大学に限らないが、「芸術」が命をかけるようなものではなくなったのだ。
そうしてみると、この大学では工芸作品が主力になる背景はそろっていると言わねばならない。そうして改めてみると、油絵も日本画も工芸作品のようにに見えてくるから不思議だ。実際の絵画作品も、工芸品のようにきれいにまとめているものが少なくない。それを支えるのが現学長で、実際、金工作家である。


トークの締めには、客席に居た学長が呼び出され、「日本橋らしく、三々七拍子でいきましょう」と持ちかけ、観客の腰の落とし方が高いと注意していた。会場に隣接する絵画ブースで、うっかりすると、学生作品の延長かと思う場所に、縦70、横90cm程度の千住博の墨絵のような滝の絵が掛けてあり、2100万円と出ていた。 馬鹿みたい。



【追記補談】 
芸大美術学部音楽学部との接点が全くない。基本的に校門を挟んで向かい合っている状態、だから下手をすると在学中の交流は全くなく終る。食堂で交じり合い、芸術祭で共催するくらいだ。ここまで極端に違う「人種」が同じ大学生というのも珍しいだろう。
不思議なことに、1960年代まで工芸科だけ音楽学部の方にあった。このことが音楽学部への親近感を醸成したのかも知れない。デザインに音楽は無関係ではないと自覚すると、視野は一気に広まり、そのことによって拡散もする。音楽学部の女子学生はりんとしていて清楚で良家のお嬢さん育ちというイメージが強く、結婚相手はこちらからと、アタックをかけていた学生もいた。