「輝ける女たち」―Splendor of females―

「輝ける女たち」(Le He’ros de la Famille)

―Splendor of females―



―フランスの2映画を肴に、女性の時代とデザインについて考える―



日本では、もっと女性の地位が高くなければならない。
え? もう、十分高いって?
どこを見て言うかで、この指摘はどんどん変ってしまいそうだ。
日本社会の規範に触れることだと、明治からの140年あまりはほとんど男の話にしかならないのでは?
軍拡侵略戦争をして、経済戦争をして、そんなことばかりやってきた。
社会の規範は男がつくったものの中にあり、金銭欲と名誉欲から争う。そして、法を定めてもっともらしく人間を縛る。


こういう時代の女の生き方は、与謝野晶子であり、阿部定であり、白洲正子であり、瀬戸内寂聴だ。
これからはもっと政治的な女性が活躍するかもしれない。その兆項はある。
櫻井よしこ塩野七生曽野綾子小池百合子佐藤ゆかり片山さつき??

でも、やっぱり女の分野は愛であり、性であり、美であり、食であり、身の廻りであり・・・つまり文化だろう、と考えたいのは男の勝手か。で、このうちのかなりの部分は、デザインの分野だ。
そうであるならば、デザインの下支えはやはり女性にしてもらうべきではないか?
それに、やはり今は、女の時代ではないのか。
女性は随分、しっかりしてきた。そして我慢しなくなった・・・。



と、ぼそぼそ考えているうちに行き詰まった。
そこで気晴らしにビデオを観る。「輝ける女たち」
なんと、このストーリーが、今夜、ぼそぼそ考えている事にぴったりだった。



例によって、ちょっと横道でストーリーを。


爺さんが亡くなって、葬式に遺族、と言っても元家族が集ってくる。
遺産分配について公証人から聞かされたのは、主要な相続人は親父とその連れあいではなく、親父の息子(兄)と娘(妹)であり、店と土地などの主要な財産を彼らに譲るというものだった。
ところがこの兄妹は、親父がそれぞれ別の女とつくった2人で、息子の母親をカトリーヌ・ドヌーブが演じている。更に、親父は爺さんの息子ではなく、養子だった。
なお更に、親父と連れあっていた、娘を生んだ女は爺さんの愛人でもあった。その上、現在、この親父は歌い手の新しい女に接近中である。
計理士の息子はホモで、惚れた若い男を呼び同棲を始める。娘は結婚しているが、親の悪い血は自分だけで止めようとして子どもをつくらない。


これで予想がついてくればいいが、爺さんがやっていたのは、南仏ニースにある小キャバレーで、パリのクレージー・ホースと全く同じ趣向の店。バタフライをつけただけのほとんど全裸の若い女の子たち4〜5人がラインになって踊る。息子と娘それぞれの母親も、実はここの踊り子だったか、芸人だったか、客相手の娼婦だったのだ。爺さんはずっと女装で舞台に出ていて、アドリブか小噺でもしていたのだろう。棺の衣装は口紅も鮮やかな舞台用で、胸廻りにラメのフレアがつきショートスカート。
そして、田舎出の親父は、売り込みを拾われてここで育てられたのだった。

ストーリー展開中、息子と娘が、何となく親父や母親に冷たく、よそよそしく、嫌っていたのは、これで読めてきた。


こういうややこしい関係の中で、息子と娘は遺産であるこの店に魅力を感じず、収支を見ても続けられないとして閉店を進める。

ところが閉店興行中に、息子は秘密の部屋から娼婦だったらしい母親を描いた絵や写真を発見、また踊り子や調教師の熱意や残念がる父親や母親たちの気持ちに感化されたのか、気持ちは店の存続に変化する。
娘は、ロシアに養子提供者が出て来たとの知らせに、これも柔軟になり、気がついてみると、昔、無理矢理にステージに立たされていたことを受入れ、舞台で歌っていた・・・。


親父は行き場がなくなっているが、これらの情景に出会い、息子と娘が優しくなったのを感じる。
かっての女(息子の母親)との情交の再開もあったり、他方で接近努力中だった歌い手と何とか結ばれたところで、彼女にニューヨークの舞台の誘いがあり、2人はこれをきっかけに去って行く・・・。



はっきりしたハッピー・エンドではないが、遺産相続を切り口に、人間性と人生への向かい方を、特に女たちの自分の本懐は譲らない生き方を、フランス人らしい仕方でやさしい目で描いてみせる。
で、ここにある複雑な男女関係は、もしかするとわれわれの未来の先取りなのかもしれない。


死んでしまえば、「体には」何も残らない。

われわれは何かのしがらみで生きているが、収入の確保という以外、本来、束縛されるものは何もないはずなのに、法や道徳なるもの、未来の経済的保証、更に日本人では世間体やメンツも加わって、がんじがらめになっている・・・。
ここに登場する男女は、自由に突っ走った結果の過去を抱いて生きているが、そこには人間の喜怒哀楽と暖かさが埋め込まれている。


でも底流はある。人生は空虚だ、そして人間は孤独だということ。

その裏返しは、実のある人生は自分で花咲かせなければならない、となる。それが恋愛であり、セックスであり、やさしい言葉とまなざしであり・・・つまりは心と肌のぬくもりで、それ以外にはないのだ・・・と、解説してしまえば実も蓋も無いが、この映画はそう言っているように見える。そしてそれは女性の本懐なのではないか。(監督、男優、女優はほとんど判らず*)



うーん、やっぱり、でも、こういうことって、まだ日本的な状況になっていないんだろうなァ、という感じはある。
やはりフランスか。つまり男女の話が中心で、それ以外に無い、と・・・。


日本では、特に社会的な立場が出てくると、こういう話は問題を起こしやすい。これは体験的にも感じている。
そのことは、だからそのまま日本人の日当りの部分と陰の部分の分別に関係してくる。
陰では見逃しても、陽の当る部分で、女に弱い男、同じく貞節でない女に社会の表向きの規制や誹謗は厳しい。



そうしてみると、しばらく前に見たビデオは、より一段と日本の規制社会の反対を行っている女の話だった。
それは、「ダニエラという女」(Combien tu m’aimes? 主演:モニカ・ベルッチ、監督:Bertland Bleier)
もっと徹底した女の物語だった。
ちょっと、そちらにも行って見よう。


頭のハゲかかったうらぶれ男が、宝くじが当ったと嘘をつき、飾り窓の女を買いに来る。
その女、ダニエラ(モニカ・ベルッチ)はやすやすと商談に乗り、彼の家に行く。
この女には、当然のように、カネを出して女を私有化している悪いヒモ男がいて、結局、うらぶれ男の嘘もばれて、女はこのヒモ男と元の「職場」に帰ってゆく。

このワル役が一見、なかなかのインテリ風情。事実、相当頭はよいのだろう。その一方で、悪の限りを尽くしている、というタイプ。この辺の国(フランスやイタリア)には少なからずいて、ある種の人間の深み(?)を表している。

ここまではお定まりの話だが、うだつの上がらないハゲも黙ってはいない。職場で、最近色気が出てきたなどとひやかされ、ますますこの女が好きになり、ヒモとの交渉に及ぶ。
結果は、女が彼のもとに戻り、職場の連中の参加する成り行きパーティで祝福されて終わる。
彼女が戻ったおかげで、アパートが急に明るくなったようだ。


売春婦を主役にしているという意味でも、とてもけったいな映画で、こんな映画が出来るのも、「輝ける女たち」と同じで、フランスらしい、と言っちゃおうか。
(こちらの監督は名前からすると英米人のようだ)
(ついでの余談だが、モニカがイタリア人らしいことからの追想。イタリアではチチョリーナという売春婦上がりが国会議員になったくらいだから、この方面の理解(?)層の厚さ、社会常識化(?)には変に感心するものがある。チチョリーナといえば、70年代だったと思うが、選挙期間中、肌もあらわな寝姿で艶然と微笑んでいる等身大のポスターが、空港から市内に入る幹線道路脇など、そこここに立てられていて、驚きあきれ笑い出した事がある)


ここからは、まったくの推量と感嘆。

ダニエラはまったく自分の行為を後悔していない。
ダニエラのように生きれれば、世の中に何の恨みもない。
そうして見ると、この映画は、ラテン民族のある気質を謳っているようだ。
この映画の教訓は、他人のせいにしやすい我々の根性からは見上げたものと写る、ダニエラの生き方だ。


人はやがて死ぬ。どう生きようとやがて死ぬ。
死ぬのは自分だ。ならば私の信ずるままに生きて何が悪い?

ダニエラはそう言っているようだ。彼女たちにとって、死は神に召されることだから、生前の自己実現は、自分に忠実である限り正当化されるはず、と考えているようだ。その結果、とんでもない破滅に直進したりもしている。でも、信ずるかぎり、そんなことは無いはずだ、という腹のくくりようである・・・なんて、したり顔で言っちゃっていいんだろうか、とも思うけど、言って見たい。

でも、ここまで徹底するとなると大変だが、日本の女性も内面の意識としてはここまできていると思いたいが、どうだろうか。
そうなら、その生き方が文化の変革を担ってくれるのではないだろうか。


女性の時代は確実に来ていると思う。
彼女たちに助けてもらうデザイン開拓の未来が予感される。
そういえば、デザイナーを集めて国策にまで持っていった典型例は、マーガレット・サッチャーだった。(でも、ニ年以上も前に、片山さつきに本を送ったけれど、お礼の一言も無かったことを考えても、この国ではまだまだ駄目かな?)



(* 後補注:監督、ティエリー・クリファ。配役(ドヌーブを除き、誰が誰かは不明)ジェラール・ランヴァン、エマニュエル・ベアール、ミュウ・ミュウ、ジェラルディン・ぺラス、ミヒャエル・コーエン、クロード・ブラッスールヴァレリー・ルメルシェ