個人を尊重しない国M.E.Abe:About respecting on personal existenc

日本社会における個人とは

About respecting on personal existence in Japan



この新年でとても重大な新聞記事を発見した。
年末、年頭のブログとの関連で、引続き硬いけれど、引用がてら、また出させて貰う。


それはマルガリータエステベス・アベという女性の、「−市場化の先にー個人尊重の旗を掲げよ」という記事(朝日新聞・1月10日)。
最初、「個人」という見出しで引っ掛ったのだが、一読、何か大変なことを言っていると判った。ジックリ読まなければ判りにくい。文章が、ではなく、その概念の範囲を想定、納得して進まねばならないからだ。そこで、再度読み直して、その主旨の適切さに改めて感心した。


ポイントは日本の市場主義化傾向が片手落ちであるとし、「国民に一律のセーフティーネットが必要だ」としていることだ。まったく同感である。


彼女は日本の、「国際的に見ても驚くほど高い、経済苦による自殺率なども個人を大切にしない社会の帰結だろう。日本人が市場での競争を恐れるのは、そんな日本社会の冷たさゆえではないか」と言う。いや、慧眼と言うべきだ。


日本で最近、嫌われ出している、アメリカ型の市場主義について、「アメリカは市場原理だけで動いているのではない」と言う。
そこには、「市場と大きな非営利部門(宗教と関係なく活動している団体も多い)が共存している」とし、「アメリカは、実は日本よりもっと温かい」と言う。


ここで考え込んでしまった。なぜなら僕の自著の中でも、アメリカを厭な国として、言って巾からなかったからだ。しかしよく考えると、確かにどこかでアメリカ人の中にある信じ難い包容力のようなものを時々、感じないわけではなかった。


アメリカには,「個人を人格として尊重する社会的素地があり、個人よりも家族・学校・会社という団体を尊重する日本とは大きく異なっている」と彼女は明言する。
うーん、日本についてはその通りでも、アメリカについてはそこまで言い切れるだろうか。何の考えもなく働く意欲もなく朝からテレビの前で口をあけている、尊重にも値しない低層階級もたくさんいるようだし、やはり人種差別がないわけではないし・・・。さらに言えば、直接に関係はないとしても国民皆保険制度ではないし。


それでも、「日本の団体尊重は恥の文化と表裏一体だ。自分が『良い』団体に所属できさえすれば、あとはあまり社会的公正などについては考えない」、となると一気に緊迫感が増す。
ちょっと飛躍はあるが、彼女が続けて言う「(日本では)事業の失敗や経済苦は『恥』であり・・・」ということから考えると、確かに僕らはどちらかというと「経済苦」を恥ずかしいと思ってきた世代ではある。その上でのことだが、ここに日本人の持つ所属帰順構造的な問題があるのは明らかだ。これを承知でどうしたらいいのか。


アメリカのような社会的素地のない日本で、市場化と国家の福祉機能の縮小を同時に進めることは国民の不安をあおるだけだ」
まったくその通りだが、アメリカにこれほどの社会的救済素地があるとは驚きであり、その分、逆に救済措置を持たない日本が思いやられてくる。


「とはいえ、従来のような規制と補助金でインサイダーを守るシステムはもう維持できない。新しい経済社会へのビジョンは、経済改革だけでなく、新しい社会的公正を掲げ、約束するものでなければならない。競争だけでなく、個人を尊重するという意味での個人主義が日本には必要だ」。まったくそう思う。
そこで、「個人を守る公的なセーフティーネットの組み合わせで、(国民に一律の)経済改革を進めるべきだ」となるのだ。



マルガリータエステベス・アベはハーバード大准教授で、名前と顔写真から見るとどうやら日系三、四世か、第三国人と結婚した日本人のようだ。そしてこの考えには自分の経験もあろうが、ウォルフレンの「人間を幸せにしない日本というシステム」などの知識がオーバーラップしていると言えそうだ。


それにしても、年頭に述べた、個人を生かす社会ということを、もっと経済学者らしい言い方で言ってくれたもので、日本についてはまったく同感。このようなことを言ってくれる人が、アメリカにはいるのだということがうれしい。
ただし、日本を外から見ているとよく判ることで、内発的な改革がどこまで出来るかも同時に想起されてしまう。