地域に生きるとは Movement in a district by architectual group

JIA港地域会―この現実で何か出来るのか

Movement in a district by architectual group


●印以降は29日追記。●●は3月1日記。



JIAというのは、すでに述べたことがあるように、日本建築家協会の略。

JIAと言い出して突然、話が本題からそれてしまうが、建築家とデザイナーは同じステージに立っている、立たなくてもよいが立ちたい人には立っていて貰っても良いという立場で、これまで発言して来ている。


しかし、過日のブログにも書いたが、建築家というサイドの職業分野がどんどん窮屈になってきているという実感がある。
つまり、建築の仕事は建築士へ、という意味での専門家分野化すればするほど、近隣他デザイン分野と離れてゆくという状況が感じられるようになっている。●もっとも、互いに引き寄せようとして頑張っている僕のような存在自体が稀有なのか、身の程知らずなのか、その辺はよくわからないが。


考えて見ると、これには3つの理由が想定される。

一つは、耐震偽装問題からの法令改定以後、建築はますます技術職化し、個人能力を離れ分業による集団化してきていること。つまり、大手設計事務所や大中建設会社設計部でなければこなせない状況が出てきていると思われることだ。
ここに、すでに技術化が進行し専門分化が大きくなっていることと、そのことが建築をますます工学部化(科学技術化)させているということ。その結果、個人事務所などでは対応出来ない状況、もっといえば個人能力を試す場では無くなっている、という2つの事がセットで起きているからだ。


もう一つは建築家自身の問題として、ジャーナルな分野のある人も言っていたが、建築家というのは頭はいいが、どこかおかしい。妙に自分が正しく周囲が間違っているという自信に取り付かれている。その分偏屈な自分がわかっていない、というようない意味の意見を聞いた事がある。
これは上のこととも繋がっているのだろうが、学ばねばならない膨大な知識、技術によって人生の大きな時間が奪われていて生活にゆとりがないこと、技術職者によくある偏屈さがつくる世界観によっているのかとも思われる。


こういうことから、話を近隣他分野との協調、あるいは、一人の能力のうちでこれらを統合することの是非や可能性という問題に戻すと、とても難しいことが見えてきている。
技術と感性の間にまたがってそれらを両方とも合わせて高いところに引き上げるという緊張は、並の努力ではない。


話が大きくそれてしまった。しかも、言わば恒例の話題に流れた。


JIAの港地域会というのは、東京都港区に在住するか、職場を持つJIA会員が連携して地域活動をする仕組みだが、過日、8人があつまり、総会と称して、●われわれに何が出来るか、地域への貢献はどう行なうのか、建築家職業の連携の可能性はどうかについて語りあった。そのことを書こうとしたのだ。


それで考えられたことはいくつかあるが、僕は敢えて収益のある事業を行なうべきだと述べた。T代表は、団体活動として「儲け仕事をしている」と揶揄されないようにしなければいけないとのことだが、実は団体活動そのものが利益が出なければやっても行かれない。


地域の活動がこれまでまったくボランティアであることについて、僕は少なからず疑問を持っていて、その観点から発言している。
例えば、T代表はみずから「高縄今昔」という小誌を編集してしまった。もちろん、関係者からいたく感謝されていて、問題のない活動なのだが、こういうことが相当の仕事量になること、それを作業とみて換算すれば相当の金額になるだろう。こういう地域への無償還元が結果的にわれわれの本業に還ってくるはず、その時に回収と思うのだろうが、そのようになるのだろうか。
われわれは本業を大切にするなら、編集作業だって能力のうちである者も少なくないのでは?これをボランティアでやってしまっていいのだろうか。少なくとも、こういう仕事には○○のコストが掛かっているのだということを明示してゆく必要があるのではないか。


言い変えれば、われわれが率先して「ノウハウはタダなんだよ」と言って廻っているような状況は危険である。
ビジネス界を見れば、100円の商売だって夢中になっている。名目店長で給料支払いを節減しようという所業に対して批判が起こったのはついこの間のことだ。なんで建築家やデザイナーばかりが自ら安売りに邁進するのか。


これにはいわく名状し難い心理状態が関係していると言えよう。
建築家やデザイナーの多くは、良い仕事はコストなんか関係ない、コスト意識ばかり出てくると碌な仕事にならない、とどこかで考えている節がある。逆に言うと、いい結果を出すためにコストを無視せよという呼び声になる。ここに一般市民も加わって、好きな事やっているのだから、コストに関係しないでしょ、という意識で加わってくる。
こうして、善意の行動が多く無償になるのだ。


●●こういう僕自身が、恐ろしく経済感覚がなくて苦しんで来ているのだ。
先ほど、犬の散歩をしながらひょっと思った。
バッハは終生、協会のオルガン弾きだったと聞いている。
なんと素敵なんだろうと思う。何とか食べていけて、自分の技量である程度好きなことをやっていける。後は静かに作曲活動に専念できる。
それに引き換え、こちらは始終、収入の心配が消えない。出る方は、定期的に引かれてゆくものがほとんどだ。より稼ぐことを考えるしかない現実だ。特に高収入を期待しているわけでもないが、儲からない仕事はやめればいいということか。


蛇足だが、教員になったら自分のことが出来ると思ったら、6年では無理だった。おまけに後半は学科長などをこなしていたので、本分からすれば雑用に属する事が多すぎた。ところが事務方から見れば、この雑用に見えるところで頑張ってもらいたいのだろう、それに媚びるように活動せざるを得ない僕のサラリーマン根性が邪魔をした。
結局現代は、仕事をして給料をもらうにしても、居てくれればいいなどという仕事は無くて、何でも効率の成果ばかりで評価されるようになっていると言えるだろう。
所詮、バッハは夢なのだ。
話はそれたが、建築家やデザイナーの少なからずは、お金より好きな仕事をやらせてくれれば我慢するという人種だろう。そしてこういう人種の方が一般に良い仕事をするのだ。そして、それだからこそ、金しか考えていない人種にスポイルされるのだ。



●たまたま、今夕、弁護士から裁判中の設計料不払い問題の高裁判決が出た、との連絡があり、全面勝訴とのことだった。
高々、200万そこらの住宅設計料を、建てなかったのだから支払う必要がない(土地を売ってしまった)というクライアントがいたのだ。
その客は何と副都心の高層ビルのワンフロアに本社を置く会社だ。


それ見ろ、と言うのは簡単だ。2006年9月27日の提訴から足掛け1年5ヶ月。何度、弁護士事務所に通ったか、どれだけの資料を準備したことか、裁判所での尋問を含め多くのことを体験したが、こういう努力を重ね、最後まで戦い実績を積み上げていかねばならない現実がある。
そして、ここには理解し協力を惜しまなかった若い弁護士の存在が大きい。


耐震偽装の発端にあった構造設計士の問題も、スポイルされ値引かれる職業の存在を示していたのだが、悪事の方だけが問題とされ、そこへ追いやられた経済環境への問題提起はほとんどのジャーナリズムがしていない。
こういうことからも、あらゆる局面で、僕らは設計、デザインが無償で提供されるなどということを是認する場を作ってはならず、まして自ら無償の行為提供などをすべきではないのだ。


●●「新建築」の3月号に、4月からJIA会長になる出江寛氏の発言記事があった。ほとんど、これまでに僕が書いてきたことと同じことを言っている。自分の話が愚痴にならないためにも、付記しておきたい。出江氏は設計報酬を法制化すべく国交省に働き掛ける、と言うところまで明言している。
同じ伝で行けば、プロダクトデザインだって設計報酬を制度化してよいと考えている。企業内デザイナーも、法制化された報酬の方から給料計算されるという道もあるはずなのだ。もっともそうなれば常勤就労者扱いされなくなるかも知れないが、それならそれでよいわけだ。


(以下、以後必要がれば継続:事業とは何かについて)