「改正建築基準法はいらない」の続き

難しい話続き、専門職の話、かつ毎回同じような内容で申しわけありません。
これでも一般化しようと努めており、少しづつは内容も進化しているとの自負もあるのです。
もう少しだけ続けさせて下さい。(15日の追記あり)(●は17日の追記)



どうして、改正建築基準法がいらないのかを探る
――「神々は細部に宿る」ことを実践するプロセスが実感出来なければ、理解出来ないことかも――


後で、整理することとして、表題のテーマ関連で、思いつく事から書き連ねてみよう。


現行の改正建築基準法は、一旦、確認申請を出したら修正が効かないように厳格化したものだ。

建築設計というのは、いいものを造ろうとすると、依頼主の気まぐれ変更や追加注文を別にしても、そのプロセスは,特に前半の設計過程では刻々変ってくる。個々のケースが違うとなると、標準寸法があるにしても、それをそのまま使えることは少ない。法規も思わぬところでミリ単位の規制をしてくるわけだし、設計と工事の充実性から、規制だけではなく、その現場で使える条件、施工法、施工手順に至るまで、それらをクリアーする必要がある。その上で、イメージに合った色、形、質感、大きさ、装飾などの問題となり、更にはそれらのコスト調整で別の規制をされて来る。


一通り決めてあっても、図面途中で、あるいは工事現場に行ってみて気が付く問題などが山積である。それを先に読んでおくのが設計だとは承知していても、それなら、設計だけに1年下さい、模型や実物検討もするので設計料を上げてもらいます、ということにもなってくるはずだ。
イメージを想定して図面に落ち着かせて行くのは論理的な思考の結果ではない。それは序々にしか進まない頭脳ワークだ。それが判らないのでは建築家ではない。技術者だ。そういえば国交省も技術者としてしか認識していないようだし、それ以外ではまとめがつかないと踏んでいるのは明らかだ。それに加えて、というより、だからこそバッファーとして国が、設計料を大幅アップさせるとか、設計期間の長期化を認定してゆくとかの措置は一切していない。これでは善意で能力のある設計者は踏んだり蹴ったりとなる。だから改正法施行で滞ることになるのは当然だ。

空間は3次元であるが、設計図は一般に2次元だ。このことも、現場(3次元)でないと気が付かない問題もあることを暗示している。図面を完璧に仕上て発注すると豪語する設計者は、とてつもなく優秀(スタッフも含めて)か、まったくの技術者に違いないと思う。

●(スタッフも含めてとは書いたが、2,3人のスタッフを抱えるだけでアップ、アップしている事務所を考えると、これらのスタッフが、ここで語る設計の創造的側面、技術的側面のどちらか、あるいは両方について超優秀でなければならないということだ。一般にそんなことって、あったためしがない。そんなに仕事が出来れば独立している。アトリエ事務所は勉強する気だから安給料で我慢しているはずだし、いつ潰れるかも分からない個人経営事務所に一生の安泰を託すはずも無い、わずかの例外を除いて。
ということは図面は完璧に仕上げる、改正基準法は正しいと言える人は、優秀なスタッフを揃える事が出来た組織事務所の上の方の設計者か、例えば神社仏閣の設計というような特別な分野や固定客を掴んでいるような設計事務所に限られるだろう。何の事は無い。設計事務所の格差化が一挙に進んでいるという事だ。今月の「日経アーキテクチュア」はこの問題を特集している)


近代以降のモダンアートが見つけたプロポーションの美や、形態の組み合わせにある美は、そのまま現代建築の造形言語になっているのであり、以上の問題解きの上に、さらに美しいものを造ろうとするなら、ああでもない、こうでもないと悩むのが普通であるはずだ。このことまでは全く時間配慮、つまり設計料の請求要素にされていないのだ。
建築はそれが現実になるところに生ずるディテールがとても難しい(細部に神が宿る)。しかもそのディテールさえもパターン化しているのだから、これを使うだけなら、創意もないことになってしまう。パターンでやれということをいわば当然化したのが改正建築基準法だ。


もう一つは、上記からもわかるように、時間が無い事と設計料が安いために、アトリエ設計者の多くが未解決要素の多くを、工事業者に投げてしまわざるを得ないことがもたらす問題だ。実際、施工図をチェックした上でも、工事現場で問題になったり、現場でしか理解出来ないような問題も少なくない。このために、仕方なく現場にゆだねることも出てきてしまうのだ。

更に、もうすこし必然性のある説明をすると、モノを扱い、モノを集めて組み立てるからには、現場的な技術、ノウハウは施工業者の方に集り易いということがある。部材のコスト、在庫、取引関係、施工手順、何を取っても、現場の方が知識としても集積しやすい。
設計者が主にやっていることはプランニングであり、それをデスクワークで図面にすることだから、どうしても現場には劣る。さらに設計に新しいアイデアを盛り込んで行く創意力を求めるならなおさらデスクワークになってしまうし、データ化が難しくなるのだ。
こう考えてくると、設計者が創意をもって考え出した設計図上のモノ(正確には具現化前だからイメージと言えるだろう)に工学技術的な責任を取りにくいことも判ってくるはず。なおここで言う設計者は、構造、設備の技術分野を分けて、そちらの分野を除いたもの―欧米の建築家の概念にも合っている―としている。ここにも、建築士に構造、設備の全責任を取らせるようにした技術主義観点の法制が見えてくる。


こう書いてくると、設計者が出来ない理由を、御託を並べて愚痴いっているようにも取れるかも知れないが、これが現実なのだ。