閑話休題 On days free time of holidays.

少しは日々のしがらみに追いかけられない時に…


On days free time of holidays.


ゴールデンウィーク真っ只中。
出掛けず、人生の意味について悩む。
つまり個人の能力とその限界について。


TVで見た(大学3年の息子に言わせると、彼らから見て、もっと若い世代も、ほとんどTVを見なくなっているそうだが…)、月面に浮かぶ地球の孤高の美しさを知るにつけ、この上で、諍い、嫉妬し、カネの虜になり、名誉欲に取りつかれ、死んでゆく人間の空しさを感じないわけにはいかなかった。

この年になってまで悩むとは思わなかった。(同時代者で早い者は10年ほど前にはすでに自分の人生に決算を出していたようだ)
これからの10年で締めくくろうというのは暢気過ぎるか。

しかしどうも、やるべきことをやっていないという実感は強い。
一方でこの問題が、現今の政治のように子どもじみていて本質的な社会改革もないと思われ、変革の期待も持てないとなると、やるべき事も内省化してくる。
僕は何をやるべきなのか。

一つだけ確かな事は、思い悩むことからは何も生まれないということだ。実行のみがある結果を出す。
そしてこの日記でさえもここまで続けらたのは、単なる自己強制的な義務感だけのなせる事だったようにも思える。このことは、今後とも、「実行のみが、少しはやっていることが見える」ということにしか、ならないことを意味していよう。

そう考えると明らかに「持続は力」だ。


去年の年頭で、人間のスケール模型を小箱に詰めて、との造形表現アイデアを出したがその後やっていない。熟成を待つとの気持ちだったからが、実行の持続はなかった。
この年になると、日々、僅かな時間でも「そのこと」をやっているかどうかが、「実行あるのみ」の伏平線になるとしか思えなくもなっている。大きな自戒が必要だ。

そのためには、小事に振り回されず、やるべき天命(義務というべきか)のすぐ取りかかれる準備状態を作っておくことが大切だ。
そういう意味だと、粘土の準備や小箱を集めておくというのは煩わしく、場所塞ぎでもある。手書き設計図でいいんではないか。
その限りではこのパソコンのように、そこに座ればすぐ取りかかれる、という作業環境を作っておく事の方がより重要となる。


それにしても、僕は自分の能力も省みず、間口を広げ過ぎている。
徐々に縮めてはいるが、とても設計だけにのめり込んでいられない現実をどうすることも出来ずにいる――建築家のグループと集って何かやろうとする。建築コンペに参加する。小さいのに事務所の経営に四苦八苦する。僅かな所員のことで頭を痛める。NPO法人の決算と新年度事業を立てねばと焦る。決算期の経理問題で判らぬことがある。息子の将来を何とかしろと家内にせっつかれる。親族争議に振り回され、家内の母親の相手もさせられる。自分の衣類の衣替えをして不要なものは捨てろと急き立てられる。誰もいない時は、犬の散歩と食事を忘れてはいけない…


もしかすると、このような現実こそが、過渡期にある現代日本人の、しかも創作意欲のある人間(!)――本来あるべき、ホモ・ルーデンスならぬ、ホモ・クリエーティブ――が置かれた本当の一般的現実なのかも、と自己弁護をしたくなってしまう。

だから駄目なのかな。やはり考えていないで、もっと身辺整理を実行しよう。