コロー:その静謐感は何を語るのか。 Corot、the painter

コロー展によせて(27日追記あり


I got something inspiration from Corot's paintings; what does it mean?
What is this silent atomosphere?
Isn't it a warnig for the present human being?


今、上野の国立西洋美術館で「コロー:光と追憶の変奏曲」をやっている。
コローについては、何となく自分の予感が当っていると思っている。


これだけのまとまったコロー展はそうザラに出来るものではない。美術館、コレクターの間に散らばった作品を借りて集めるだけでも、大変な努力とカネがいるはずだ。
日本にいてこのような展覧会にめぐり合わせたのは、本当に幸せだと思う。バルビゾン派としてくくられた画家の方でも、それほど日本で知られたわけでもないことを考えると、学芸員の意欲と慧眼、努力に感謝する。ここでは高橋明也氏(三菱一号館美術館館長)の努力が大きかったように受け取れる。
寄贈者の条件でルーブルから門外不出になっている20点あまりを除いて、大方の作品が集ったのではないか。


コローのことは拙著に書いた(「デザイン力/デザイン心」及び「デザイン・シフト」)。
どうしても、僕を捕らえて離さないものがあるのだ。


その静謐感は何を語るのか。
何より、今、なぜコローなのか。


それは自然を忘れた現代人へのアイロニー


当時、同じような絵を描く画家はたくさんいたはずだ。日本でよく知られたのが、ミレーやクールベだろう。でも同じ風景画でも全然違う。


ジャン=バティスト・カミーユ・コローは1796年、パリに生まれた。明治維新より73年も前だ。1875年死亡。明治8年。79才。イギリスの産業革命には出くわしたが、人身を揺さぶるほどの近代の拡散と混乱を知らないで済んだと言えるのだろうか。
晩年はパリ郊外のクブロンに別荘兼アトリエを持ち、そことパリとを往復していたようだが、死の間際に友人に「…私には、これまで見たことのなかったものが見えるのです。どうやら私は空を描くすべを知らなかったようだ。私の目の前にある空は、はるかにバラ色で、深く、澄みわたっている…」と語っている。(展覧会カタログ:ヴァンサン・ポマレッド編から)
しょっちゅう旅行をしていたようだが、それだけにサロン活動とか友人付き合いとかは深くなかったようだ。その表れか、彼の絵には孤独感と哀愁感が密かに忍び寄っている。



今回の作品群を見ていて、いくつかの事に気がついた、というより、その「実在」を確認した。

1・遠景に地平線を意識し、その存在を必要としていること
2・それと対象に、近景に樹木などを配し、遠近感の強調を作りだす事
3・樹木を始め、表現が菱田春草の言葉で言えば「もうろう体」と言えそうだが、これは夢や憧れといった非現実を語らせる手段と見える
4・光と影を明確に参加させる。このためには水が重要な役を持つ
5・点景人物、動物、建物などを小さく入れ、自然観照だけではない空間の親和性、あるいは人間臭さを持ちこんだ
6・イタリアの空気と光を吸い込んだ


こういう視野は、画家の中でも空間を意識して、それを光と影の中で構築する分析力を持っているからだと言える。彼の目は、美術家としての建築家の視野を持っているのだ。それが、宗教画家っぽいイメージや、自然分析研究家のような方向に行かないで済んだ理由かも知れない。もっというと、近代以降の絵画の純化傾向に合っていたと言えるのだろう。


どういうわけか、特に気になるのが、通俗的だが68才で描いた「モルトフォンテーヌの想い出」とする一枚。
紹介記事によると、この絵はナポレオン三世が買い、所有していた時期もあるらしい。

そこにはしみ渡るような手付かずの自然がある。これをめでる画家の眼と心は、現代人が失っているものだ。



前述の高橋氏は次のように言う。
「…外界の喧騒・通俗・悲惨といった要素を濾過してしまうような、強くはかない夢のような磁場がコローの作品の大いなる魅力であり…、芸術創作に見られるこうした特長は、外界、一般社会と創作世界に強い緊張感と乖離が存在する際にこそ、より強く現れるのであろう。…」
確かに、近代から現代に移る第一次世界大戦前後に急激に再評価が高まったことはこの証だろうと氏は述べる。(同展カタログ:「カミーユ・コロー―現在を生きる19世紀の画家」より)
ということは現代の危機的条状況も又、第二、第三の評価期であると言えるのではないか。


これは現代人への精神的エコロジーと休息への教科書なのだ。