心の震える世界   La Sconosciuta、ItalianVideo

「題名のない子守唄」を見て


―ここらで小休止―  (7/9、10少し追記)


 La Sconosciuta, Itaian Video tells what is the life?


僕が書くこの日記の時々に、デザインなんかに何の関係もない(あるのかな?)、硬いのか柔らかいのかわからないような話、日本人的、日常的でない異質な空気があるのを感じ取っている人もいるかも知れない。こう書くと、いかにも思わせぶりだし、そんなこと誰だってあるよ、いい気なものだということも感じはするが、僕の場合、多分、それは長いイタリア生活での体験に繋がっているものだ。
これをブログに取り上げるのは、一種の紙面上の気分転換を求めるからと言っておきたい。


最近のビデオ・レンタルで知った「題名のない子守唄」という作品。
ジュセッペ・トルナトーレ監督、だからもちろんイタリアもの。原題は「La Sconosciuta」といい、直訳は「知らない人」。
このストーリーは、教養に資するものは何も無いと言っていい。それでも取り上げるのは、この自分の記憶に残る体験に引っ掛ってくるものがあるからだ。
例によって,クロアチア辺りから、パリでもない、ミラノでもないようだが、多分かなり大きな街に流れてきた売春婦のサディスティックでマゾな残酷物語なのだけれど、僕自身が売春婦との関係でこういうことがあった、というわけではない。念のため。ただ、生活の周辺には、日本の日常では信じられないような、愛と憎しみ、孤独と歓喜に繋がりそうな情景があったなあ、という想い出をこの作品も喚起させてくれるのだ。
こういうストーリーのものがラテン系作品に多いと言う事自体が、日常の近くに類似現象があるという証左なのかもしれない。


内容については書くのがはばかれる。当然、殺し切れなかったヒモから逃れられない恐怖に怯えながら、自分の私生児とおぼしき子供にアプローチしてゆく女の話だが、最後はハッピーエンドだ。
身近かにもいた、こういう荒々しい日常を生きている女性の姿を見るにつけ、人間が実はいつも生の根源に立ち向かわされていることや、人生って何だろうと問わずにはいられない状況を意識させる。残虐なほど、その身震いが伝わってくるように感ずるのだ。
本当に、イタリア女は自己中だが強い。


ここでちょっと参考に補足。
最近のイタリア事情は不明だが、35年も前に、かの地での新聞・雑誌情報(当時、テレビはほとんど見なかった)を見て驚いたのは、残虐な殺人現場などの写真がそのまま生に紙面に出されていたということ。当時でも日本では絶対にあり得なかったろう。そうなると、あの国自体の生と死の振幅の大きさがイメージされてしまうのだった。このような現実に接していると、日本人の日常がいかにオブラートに包まれているかと感じたことがある。


今では僕にとってイタリアは遠くなった。
そして、心のトレモロが消えかけている今、あれは何だったのだろうと思う日が多くなっている。かと言って、それが消え去るものではない。むしろ、その生への記憶が、現状の撹拌を企てているとさえ言える。