勝見勝賞を受賞して Receiving the Katzumie Masaru Award

デザイン主役―可能性と挫折の間で
―現代に忘れられた勝見勝―


(勝見勝賞を受賞して)


I've received the 20th. Katzumie Masaru Award last June.
He was the most famous design journalist in Japan in 50 and 60's.
He must be worried about how to get the initiative with design, in between it's possibility and collapse which we are facing―



実は、6月のうちに僕にとって名誉な「事件」があった。
ひょんないきさつで、20回目となる勝見勝賞を頂く事になったのだ。


しかし、若いデザイナーや学生に聞いて見ると、誰も勝見の名前を知らないのにも驚いた。
10周年の1997年には田中一光がポスターを作り、記念展も立派に行なわれたというのに、これはどうした事だろう。
この間にそうそうたるデザイナーが受賞して来たが、時代の趨勢を感じないわけには行かない。
記念に、というより記憶を現在に引き戻すために、少しばかり勝見勝のことを書いて置こう。


勝見勝は1983年に74才で逝去したが、亀倉雄策を委員長とする合同葬儀委員会はたくさんの会葬者の芳志を、「勝見勝著作集」の編纂出版と「勝見勝賞」に当てることを発表、この賞が生まれたものだ。
出版は1986年に講談社が全五巻を刊行、賞は1988年に第一回が行なわれ、初回は中西元男氏(パオス代表)が受賞した。
(ここで断っておくが、田中一光亀倉雄策まで説明するようでは、最早デザイナーとは言えない。一般の読者のために敢えて言えば、二人ともグフィック・デザイナーで、日本宣伝美術会[日宣美]を中心に活躍。田中は日本の色と形態を独自なモダニズムで確立。亀倉はシンボル化した形態からの強いメッセージ性を打ち立てた。共に1960年代前後の、職能意識の上では未分化に近かったデザイン界のオピニオン・リーダーであった)


勝見勝は1906年生まれで、青春時代に、はるかな国のバウハウスの活動を知ったはずだが、大学を出てから教育、編集活動を重ねてデザイン評論、著作、翻訳で知られ、東京オリンピックなどのデザイン・コーディネーターとしてつとに有名になった。特に、デザインがわからない時代に「インダストリアル・デザイン」(H.リード、前田泰次と共訳、1957)、「工業デザイン―理論と実際」(ヴァン・ドーレン、松谷●●と共訳、1962)、「現代デザイン入門」(自著、1965)、「現代デザイン理論のエッセンス」(監修共著、1966)と立て続けに出版し、卓越して広大な視野からわが国のデザイン認識ベースを確定したと言えよう。
このような時に学生時代を過ごしたわれわれ世代にとっては、寒天に慈雨、原野に鉱脈を探り当てた気分で、勝見勝はいわば聖書の解説者であり、引導者と見えたものだった。


では、勝見の理論はもう古いのか。
確かにその後に来た新産業革命と言えるIT化と、高度成長がもたらした地球環境問題は産業どころか、文化のあり方も根本的に席巻しはじめている。また、日本は政策と行政、政治の低迷と行き詰まりから、金融及び金権主導国家に走り始め、格差社会への傾斜をどんどん強めている。


勝見はそれを知らないが、その言わんとするところはもうお役御免になったのか。僕はそんなことはないと思う。デザインの原義については勝見の捉えた時点をしっかり見直し、現代に生かすべきものと思っている。それは今後の検証に掛かっていると言えよう。

(1校からの転記変更。3校目は朝日新聞社送り)