ある映画が教える人生の意味 The real meaning of life taught by a

生と死の実感のない人生


Life without an actual feeling of living and death.
Seeing the movie "The curious case of Benjamin Button.



死がこんなに確実であるのに、死のことを準備出来ない。というより、死のことを忘れていたい。
身の周りでは、思わぬ人が去ってゆく。2,3年会わないだけで、もう訃報に接することも少なくなくなってきた。
それでも自分にとって死は、まだまだはるか遠くにあるように思うノー天気さ。
それをやんわりと締め付けるもの(映画)に出会った。


ベンジャミン・バトン 数奇な人生」である。
それぞれの画面は生き生きと明るいのに全体に暗いというのか、諦観的な視点があるとでも言うのか、人生の有限、死の意味、死は永遠か、といった問題意識が常に念頭から離れない現代の大河映画である。
それと言うのも、まったく現実的で時代考証もしっかりした設定にしておきながら、生まれた子供が老人で、大きくなるにつれ若くなってゆくという奇想天外な発想で現実を生きるストーリーだからである。ちょうど子供時代を一緒に過ごした少女が女になるころに、彼ベンジャミン(ブラッド・ピット)も壮年になるという交差期が華として添えられていることになる。映像はなかなか美しい。


ストーリーはかなり緻密に構成されていて、各所に再会や繰り返しを用いている。当然大河ドラマらしく、実にいろいろの出来事が組み合わされていて、時代が経ってしまうと忘れてしまいそうなことも起こる。
例えば、ロシアで曳き舟業に関わってたころの宿での情事の相手が、自分は(元)遠泳選手で、英仏海峡を渡りきれなかったのよ、などという話をする。そのシーンも出てくる。それが、ずっと後の時代になってベンジャミンがほかの女のいる場でふとテレビを見ると、「60何歳かの女性が英仏海峡を渡った」というニュースをやっている。それが彼女だった。ストーリーは実に細かく仕掛けている。その意味と判断は観る者がとっさにしなければならない。


それだけに、ある種の憂愁に囚われるのだろうか。
この映画はじっくり見せてくれながら、人生って何だろうと自己反問したくなるものを持っている。また人生の時間配分が見えるようで、しかるべき時期にしかるべきことが準備されていないと手遅れになる、というようなあせりの気持ちも滲ませる。
こんなに、生と死の実感のない人生を生きているのは幸せなのか、不幸なのか、鈍感なのか、こんなことをしていていいのだろうか、実は自分でもよくわからない、というような気持ちにさせるのだ。