直観で判っていても信じられない民/「イタリアと日本」開講

【日記】 (この日の内容は、更に言いたいことが募って来て、また翌日追記があります)

 

(忘れちゃ困る。自分で始めたこと)


昨夜、ある区民委員会の会合で次回の日程調整となり、「10月6日の夜はどうですか」となりました。それは「港区かがやき百景実行委員会」という企画の日程でした。これについてはまたご案内します。
予定を見たら何も書いてありません。
そこで、「私は大丈夫です」と言ったところ、「大倉さん、何が大丈夫ですか。この日は大倉さんの話のある日じゃないですか」と、ある老婦人に怒られてしまいました。
なんだったっけ?、えーと。あッ、そうだ。自分が企画したカルチャー講座初日じゃないか!大変」
何が大変かって、火曜の夜が毎週続くのに、ぽち、ぽちとあちこちに予定を入れ始めちゃっていたからです。

こうなったのは、開講相談中の事務担当者に、「ご希望の講座はこれまで、こちらではやったことがありません。ご自分で聴講生を開拓していただくならどうぞ」と突き放されていたために、餌の入ったバケツの水を海に投げるような気分になってしまい、すっかり気もそぞろになってしまったからです。講座の開講にまったく自信が無くなってしまったのです。
語りたいことはあるにせよ、そもそも設計業務、事務所業務をさておいて、こんなこと始めていいんだろうか、という大きな疑問のなかでのことです。

でも、このご婦人の一喝で、目が覚めました。
知っている人がいて、来てくれる人がいるんだ!ということです。何とか、やります!

その講座は「イタリアと日本。何が見える?&見た目ガイド」というものです。
(去る8月26日の本ブログで、内容を紹介しています)

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ゲーテは野山を歩きながら、こんなに時間に追い詰められた日常は微塵も感じていなかったはずだ…。


まったく、唐突にこんな思いが脳裏をよぎった。


生の根源的な意味の挟間で、人間を考える余裕のあったあの時代。
もちろん、病魔や食糧難を伴う貧困が世界の大半を覆い尽し、宗教に帰依するしかなかった時代にあっては、それができるのは稀有な有閑人だったのかも知れないが…それはさておき。


悠久の中に、自然としての人体がある。
同じように植物は、日光の吸収についても自分で解決している。
「…互いにじゃまにならないようにするにはどうしたらいか。植物は問題をすでに解いていて、その最適解を私たちは今見ているんです。…個々に全部状況が違うから、ぜんぶ見えるかたちは違う。…ややこしい問題の答えというのは、こんな風なんだと漠然とわかる。自然を見ているとわかってくることなんです。
それをコンピューターで最適解を出そうとしたら、えらい計算ですよ。説いた結果をすでに見ているのに、解いてどうするのか。
だから学者って、ある意味アホだと思うんですよ。答えを目の前に見ているのに、わざわざ遠回りをする。なにか調和がとれているということは、実はエネルギーの最小点なんです。それを私たちは、しばしば美しいという」


この発言者は養老孟司氏。パラッとみた雑誌にあった(「新潮45」10月号)


「イタリアと日本。何がみえるか」で話そうとすることは、いや、何とか含みを持たせて話したいと願うことは、このようなことだ。


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例えば、小設計事務所では営業力がなく仕事が取れない。そこでそれを取り持つネット会社、情報サークルなどが出てきて、妙な、あるいは面倒くさい入会条件をつける。そして会費の請求だ。ここではすべて紹介ビジネスのために振り回される。


一方、せっかく入会した団体(この場合、JIA日本建築家協会)などのこの方面の動きは鈍く、ここでも条件を付けたりする。


日本はすべて、条件整備社会になっていて、なかなか本質に至れない。


更に言えば、例えば車の免許。記憶では、イタリアでは場所を借りて何人か集めて実務とメカの10項目程度の筆記試験。知っていれば合格。そのまま路上試運転。裏道を教官を乗せて10分くらい走る。スピード、車庫入れなどお構いなし。走り初めて止められればいいという感じだった。出来ればそれで終わり。このためには無免許でもすこしは実地地ならしをしておかなければならないが、そこには目をつむっている。
それは、車は運転出来て当たり前、そんなことに時間とカネを割いている余裕はないと国民皆が思っているからだ、としか思えない。
もう一つは、事故は個人の責任でしかなく、個人が危ないことをするのを国家が管理するものではないし、出来るわけもない、と考えているかのようだ。


アホなのは学者ばかりではない、この国の民が皆、そういうものだと思っていること、言い換えると自分の人間としての内在性を無視しているか、軽視している、あるいはそれを知らない、といった状態にあることが考えられる、と言ったら悪乗りのしすぎか。