M@オノ・ヨ―コのこと

【日記】


オノ・ヨ―コのことが忘れられない


昨日か、テレビ番組でジョン・レノンとオノ・ヨ―コのことをやっていた。
どういうわけか、オノ・ヨ―コのことが意識からはずれずにいる。
例の山高帽とサングラス、黒いパンツの衣装で、本人がゲストとして出席。
若く見せているが70歳をとうに越しているだろう。


彼女はもしかすると、日本の芸術家のためにはとんでもない価値を秘めているのではないか、と思えてならなくなったのだ。
ジョン・レノンの妻として見てきたのは事実だが、高貴なイギリス人(?)に対して寝とった東洋女として曝(さら)されるだけ曝されたバッシングを生きてきたこと、彼女自身が哲学的帰結(?)として現代アートに自分を曝したこと、この2点で、僕の内にたぐいまれな存在として浮かび上がってきたのだ。


関心有り無しの問題か、あまりに恵まれた教養と社会的地位のためか、彼女は「日本人としての問題」にほとんど発言がないようだ。
しかし、恐らく自分が日本人であることは十分知って生きてきたことだろう。それを問題にしたことはほとんど聞いていない。意図的か、全く無関心なのか。あるいは戦後の日本人世界が欧米一辺倒だったことの結果か。
僕の彼女への関心はその辺にある。


大学をスタンフォードかどこかで過ごしていることや、英語の世界にまったく問題がないようなところを考えると、半分日系人的なのかも知れない。それなら関心は薄れる、というより、そこにある日本人の姿をもっと知りたい。
それは岡倉天心の、あの欧米人をものともしない精神の分析とも一脈通じている。


オノ・ヨ―コには、日本人であることから話してもらいたいのだ。
ジョンも日本が好きで、4度とか来日し、軽井沢での生活を楽しんでいる。
二人とも、屈託なく日本人の世界を泳いでいるように見える。
こんなジョンだったから、ますますヨ―コは日本人であることを意識しないで済むようになったのか。


実は、大学時代に、新宿の紀伊国屋ホールで、オノ・ヨ―コのパフォーマンスというより、今で言うライブ・ショウのようなものを見ている。
舞台に座って、観客の誰でも一人づつ、ハサミ一つで自分をどう刻んでもいい、ただし髪と体は傷つけないでほしいというものだった。
変な女がいるものだな、と思ったが、それより、我はと舞台に上がった男たちのアートとしての切り込みがいじけていて厭な気持になったのを覚えている。簡単なワンピースの肩のあたりや腹のあたりをちょこちょこ刻んで終わったのだった。もちろん下着は着ていない。
後年聴いた話では、欧米での同じライブではほとんど丸裸にされていたそうだ。


それにしても、とんでもないスケール・アウトな人間が日本にもいるのだ、というより、もともとこういう人間も生かしておくのがこの国の良さだったのではないか。


過去形にしている意味はお分かりだと思う。この国はあまりにも窮屈になってしまった。オノ・ヨ―コはその突破口なのではないだろうか。