K@理系バカと文系バカとデザインバカ?

【情報・論】


理系バカと文系バカに加えてデザインバカがある?



歴史的な由来が深く根ざしているのだろうが、日本では理系と文系という区別が以外と浸透している。
そこから「理系バカ、文系バカ」という蔑称も生まれている。
同名の著書を読んだが(正確には「…と…」が入る。竹内薫著、PHP新書)、まったくその通りとは思うものの、何か物足りない。
思い出しついでだが、「人は見た目が9割」(竹内一郎著、新潮新書)にも同じような感想を持った。もっともこの著者はいわば演劇バカ的な印象が強く、文系バカがその世界だけで客観化したという感じだったが。それが何か物足りない感じなのだ。


何故だろう、何故だろうと思いつつ読み終わったが、どうもこの著者(竹内薫氏、以下はすべて同人)の思考の内容にあるのかも知れないという気がしてきた。
もちろん、それぞれ理系バカと文系バカの違いや特徴の説明は明快で納得できるものであるが。
文理融合を目指せ、という結論にも全く同感なのだが、読後記憶では確か、例え話に文系のものがほとんど無く、人間史、歴史全般、体技・技芸(体育)のようなものはもちろん、特に美術、音楽といった芸術系が全くないのである。だから当然、デザイン、建築などもない。
人間の経験限界というのはあるかも知れず、著者自らサイエンスライターと称しているように、科学に惚れ込んだ人なのだろうし、それ以上を求めるのは難しいのだろうが、どうもそれがものたりない気持ちを増長しているようだ。


言い方を変えると、竹内氏の論理のなかに、日本人全体の一般的な認識構造が入っていて、それが今の日本人には何とか通用する世界観になっているようだということ。
そこには僕の感じる、あるいは感じてほしい日本人の姿が見えていないのだ。
多分、竹内氏が言葉を中心に、言葉を媒介として現実の日本社会を観察することにのみ沈潜し過ぎているからのようにも見えた。


デザイナーが持つ文系、理系の混沌は、竹内氏が分析するベクトルとは逆のようでもあり、もともと文理融合がいわば無意識で行われてきたところに、今になって、より科学化を求めたり、反発して文系の悪しき面に再埋没してしまったりするようになった、つまり文理離反に向かっているようにも見える。それは敢えて区分すればデザインバカという分野じゃないのかという気もする。
そういう視点から逆に見れば、建築家やデザイナーはその出発点において(いつが出発点かは議論のあるところだが)、すでに文理融合を実現していたか、少なくともその理想から出発していたのだ、ということになる。デザインを芸術と技術の中で歴史的経過から体系化したハーバート・リードなどはそういう位置に居たのだろうと思う。
コルビジェやミ―スは、時代が突出を要求した時点からすれば、ある意味ではデザインバカなのだが、その本質において文理融合を体内化していたといえるのではないか。(他国の人を出して、日本国内事情で説明するのもどうかとは思うが)

竹内氏には、建築やデザインに特定することはないが、こういう視点の取り込みもあって欲しかった。(1−4)