K@デザインは科学か

【情報・論】(6月6日追記)



デザインは科学であって、科学でない



禅問答のようだが、デザインの両義性を語ったものだ。
デザインが科学であるのは、ある意味で受け入れられやすい。
マーケティングは統計的な手法で、市場のニーズを科学化しようとするものだ。
一方、どれほどマーケティングが精度を究めようと、未知の具体的提案は結局、経験から割だした人間の主観となる。
このことはモノつくり企業のトップがよく知っていることである。


デザインを科学にしたい要求が、判断の客観的精度を上げたい人にとっては当然のこととして起ってくる。
それはそれとして受け入れられるものだが、個人能力からみて人間の適応力には限界があり、科学に振れれば振れるほど、独創性から離れる可能性はついてまわる。直観や類推そのものは科学ではない、と判断しての話だが。いわば右脳の役目を左脳が出来ないのと同じことだ。
あるいは、アインシュタインが相対性原理を「発見」したのは、長い分析的思考の末の直観かも知れず、本人はこのことを持って科学者であると言っているのかどうか。
昔、数学者の岡潔小林秀雄と対談した時に、数学者の直観や推論について議論し、それは芸術のようなものだという話になったと記憶している。


デザインは計画であり、それを可視化することであるから、計画が科学になっても、未知の可視化という最終領域が科学になるかどうかは未知数だ。
もしデータの帰結が正解なら、何もデザイナーなどという職業は要らず、制作職人を使って、あるいはコンピューターに作らせて、出来るだけ科学的判断の出来る人間が新しい創造空間を決定すればよい。それがどんなものか。宇宙船の設計は恐らく科学だけであろう。十分管理された菜園は、気象と計算外の植物の自生判断を除けば科学になりうるだろう。それらの結論は、最適解を求めるとすれば常にただ一つの解答に帰結するため、誰がやっても同じことになるはずだ。その最適解がいくつかあるか、あるいはそこでの個人の裁量が認められる場合には、選択権が生ずる。これがBIM(企画設計施工一貫のCADコンピュータ管理)などでも受け入れられつつある考え方だ。


創作という視覚創造に関わった人がその職能的経験から、表現を科学化出来るとか、したいと思っているとは考えにくく、デザインなら科学として判断すべきものとされるなら、その人はデザイナーであることやめるしかない。しかし、直観や類推が創造的可視化の決定的要因である以上、その仕事に長けている場合、デザイン(表現行為の決定)の最後尾を維持していることにはなる。そうなれば彼はまだデザイナーに留まることになる。その際に他との差別化を意識すれば、その行為はもう主観でしかない。
デザインが科学であって、科学でないという議論はこうして成り立つのではないか。(1−3)