M@姜尚中のことと横着力

【日記】後日追加あり




書のタイトルは、ちょっと気に入らないけれど…



昨日、書いてるうちに文章が消えたのは、姜尚中(カンサンジュン)のことでした。


NHKの日曜美術館の司会なども始めていて、これは姜さんにはわからないだろう、もう止めてよ、という気持ちだったりしたくらいで、彼のことに関心なかったのですが、偶然、著書「悩む力」(集英社新書)を読んで(読みかけですが)、いたく感心したからです。書のタイトルは、ちょっと気に入らなかったけれど…



マックス・ウェーバー夏目漱石に心酔していて、両者を出して自分を語るというやりかたですが、悪くない。


実は先ほども、同じことを書いていて、うっかり居眠りをしてしまい、何かのキーを押してしまったのでしょう、また消えたのです。
ツイッタ―ではありませんが、もう、怖くてとうんざりで、これで十分言ったことにして、とりあえず止めます。


(休題)
とは言え、そうやって済ますのは、やはり気がひける、と考えたのは翌日です。


生きること、働くこと、愛することに、これほど真剣に取り組むというのは、姜さんにもある種の古さと懐かしさを感じます。
自分事になりますが、青春を徘徊したのは、同じような悩みに取りつかれたからでした。
特に尊敬していた主任教授に、「君は、俺が、俺がと言い過ぎる」と言われてから、いわゆる虚栄心の問題に取りつかれ、そこに言葉の重みの問題も重なり、他方で、社会に出て自分のやりたいことで稼いでゆく自信の無さから好きな彼女にアプローチ出来ず、結局失恋したことのショックが重なって(笑われそうですが)、気負っていただけに暗い暗い二十代を送った記憶と重なるのです。


マックス・ウェーバーの名前は知っていましたが、とても美術大学の本嫌いな学生に読めるような本ではなく、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」もなんとなくタイトルに惹かれながら、読んでみても実感に至らず、釈然としなかった記憶があります。やはり、姜さんは大学も政治学科だからこそ、的確に時代の空気を捉えた上で判断できたのでしょう。


ということで、ある種の共感が評価を上げた、本と著者との出会いでした。




(23日の追記)

「悩む力」、読み終えたのですが(ずいぶん遅い)、途中ワンパターンのトーンに感じ、少々くじけました。


それで、最後に<「横着者」でいこう>という一章があって、にわかに解りました。書のタイトルは、ちょっと気に入らないけれど…と、書いた理由が。

「悩む力」ではない、「横着力」だ!と。


もちろん若い人には、おおいに悩んでもらいましょう。でも老人(自分のこと。自明か)は横着していこう、とは姜さんの意見であります。
ここで、知らなかったのが、漱石ウェーバーの死亡年齢の話です。
姜さんが言います。

「人生とは長いようで短いもので、私も57歳になりました(エッ、本当?)。漱石が亡くなったののは50歳、ウェーバーは56歳ですから(ヘーッ)、気付いてみれば、すでに彼らの年を越えてしまっています(ウーン)。私にとって彼らは大先輩であり、どう考えても年下とは思えません。何か軽いショックのようなものを受けたりします。
そうなのです。彼らは意外と若かった――。(姜発言は括弧内を除きます)


そこで「それは、いまの人々の多くが実年齢より低年齢化していることのあらわれでもあります。周囲にもし漱石と同じ50歳の人がいたら、較べてみて下さい。おそらくその人は漱石のように「達観」などしておらず、「煩悩の塊」であるはずです。」と続きます。本当にそうですね。


ということから、日本の「超高齢社会」の現実を見ると、溢れる「達観していない」老人の国ということになり、その老人たちが定年で無職になる、各種のサービス割引や無料があることを考えると、「積極的な消費者でもない。どこか未成年は「無罪」と似たようなフリー状態になるのです」と結論づけます。
そこから老人たちの、どこにも属さないで勝手なことをする、「攪乱する力」が出てくるといいます。
そういう社会になるのだから、そこでおおいに横着をしようと…。


万歳です。ついに老人が解放されたか!