ブログを書く意味/キジョッティらと交歓

【日記】


ブログを書く意味はどこにあるのか。
昨夜、またまたイタリア文化会館でシンポジュウムがあり、終了後のパーティである方と雑談していて新しい感想を得た。
お名前を出してもいいのかも知れないが、ご本人の確認を得ていないので取りあえずは明記を避ける。


「書くだけでも大変なので、その努力は報われるはず。どうぞ頑張って」、と言ってくれた。
話の中には、「建築家がどんなことを考えているのか、一般人は知りたい。その意味でブログははおおいに関心があります」ということも出た。
「でも、家を建てたい人にとって、デザイン界のことや、時代認識や、書評など読んでも、頼む気にはなりませんよね」
「うーん。そうですねぇ。そういう意味ではなかなか難しいかも」


ホームページでガンガン自分の仕事の紹介をしているのではない現在、ブログ一辺倒はやはり危険なのだ、と思わずにはいられない。
自分がスケッチや手書き図面で「対象を表現すること」にこんなに長けているのに、その方のプレゼンは一切していない現状は、確かに異常だ。持てる武器は温存しておいて、という気持ちが、気がついたら武器が錆びついていたというのでは何にもならない。



イタリア文化会館でのシンポジュウム(昨日1日)は、芦原太郎(司会)、隈研吾藤森照信、マルコ・コルベッラ(石本建築事務所)、ジュセッぺ・キジョッティ、フランチスコ・プラーティ(アルゼンチン)の各プレゼンテーションと座談。隈氏の話は遅れて聞き洩らし(聞いたJIA港地域会の野老(ところ)さんの話では一番良かったとのこと)、藤森氏の途中から。「何でもあり」の藤森氏にあっては建築基準法や、建築士法なんてどうでもいいものなのだろう、と思えてくる。最後の座談の場では、「美しい日本の自然をソーラーーパネルや風力発電の羽根でうめ尽くすな!」と語り、拍手が沸いていた。
コルベッラ氏は流暢な日本語を話す。ただしプレゼンは、いい内容だとは思ったが、難しい英語のチャート・パネルが多い割にスライドが早く、それをイタリア語で話す。で、じっくり検討していられなかった。


キジョッティ氏は、今回(1月26日に)知り合ったが、勤めていた事務所の所長バルトリとイメージの似た理知的で硬い建築理論家の肌あい。すぐに打ち解けた。わが在伊時代の日本人の人間関係(蓮池氏や細江氏など)もほとんど知っていて懐かしい。
そもそも昨夜のテーマは「サスティナブル・アーキテクチュア:プランニング、新技術と材料」というもので、その難しいテーマに各パネラーが自分の思いを語ったもの。キジョッティ氏は「政治の問題だ」と看破していて、後のパーティでは、互いにそのことを確認し合った。
LMPアーキテクツのフランシスコ・プラーティ氏は、アルゼンチンの人のようで、トークは下手だったが、作品の多くがその辺の土地の仕事の様子。広大な大地に、空気、風、自然を取り込んで、自由に、しかし一徹に近代主義的な造形言語で切り込んで行くと見えたところは、すがすがしいとともにうらやましい気持ちになった。空間の作り方はうまい。


座談会も超満員、パーティもふんだんな食べ物とワインが出て、大盛り上がり。
外に出てみたら、この冬初めての雪が舞っていた。