EGK@デザイナー・建築家の生きれるプラットホーム

【大きな構想】


(主に建築設計系編)


仕事の専門分担協働作業による企業化を社会システムに――プラットホームの作り方



事務所、つまり極小企業を開いて見てすぐ気がつくのは、年度決算報告のことだろう。これは単年度決算であるが、2年度目、3年度、5年度ごとの決算などというのはない。何もまとまった事業などやらなくても決算報告をしなければならない。
職業柄一つの仕事が、半年、一年とかかるようなことが多いのに毎年である。
どうしてこういう文化的職業に、国が税務上のサポートを差し伸べられないのか。しばらく見ていこう。



飲食店などを考えると、細かいが、まとまった支出に対してまとまった現金が入る。年間ではそれなりのまとまったカネが収支計上出来る。余談になるが、こういう職業は一年やると次年度事業の予想が立つ。春夏秋冬、平日休日連休、時間帯、それにどこの仕入れ材や具がいい味に関与して人気が出る、などのデータが翌年に活かせるのだ。


設計業やデザイン業は手形こそ無い(はず)だが、その多くは、一年やっても何をやったか分からないような事業収益構造だ。もし利益が出ても、次年度送りなど出来ない。次年度の収入があるか無いか分からないのにだ。
グラフィック・デザインなどは小回りが利き、リスクも少なく、手離れも良いから、飲食店なみの細かい収支の積み上げが可能かも知れない。もっともマックの出現以来、総務部のお姉さんがパンフレットを作るまでになってしまったから、別の意味で大変なはずだが。


デザインでも分野により様相は少なからず違ってくる。しかし飲食店のようにはいかない。いいところは一般に先行設備投資が少なくて済むということだ。人件費はかからないように見えて、それは所長が一人ですべてをやる場合だけ。その他の場合は飲食店より専門職相手だけに始末が悪い場合が多い。


これが、企業規模が大きくなってくると様相が大きく変わってくる。受注が年間ひとつではどうしようもない仕事でも複数扱っていれば、どれかが続いてゆく見込みが出来る。コンサルタント契約が出来ればもっと良い。従業員も営業専門や事務専門も置くことが出来る。
それでも既に述べたように、設計業そのものが今年あったから来年もあるという種類の仕事ではない点が問題だ。今年のクライアントは直接には来年の客にはならないし、その後も同じだ。おまけに税務上も一般認識でも、建築家・デザイナーはサービス業扱いだから、景気が悪くなれば真先に首を切られる立場だ。


次に、請負であるはずもないのに、請負と見られ、馬鹿なことにデザイナー・建築家もそれに乗ってしまうという問題がある。
設計業務は、顧客の希望を聞いてある打開策を視覚的に提案する仕事だが、プロダクト・デザインと建築の場合、結果を保証するためにカネをもらうのではない。業務は完成品、竣工した家などに結実するが、この果実のための計画案をクライアントとの熟議を経て提案し、合意の上で、完成までもってゆくものだ。ここには請負保証の考えはなじまず、むしろ委任契約の概念に沿っている。
こんなことさえ、クライアントとの間でさえ初期合意がないのが一般的なのだ。


このことは専門的には「設計施工の分離を求める」という。
工務店や建設会社は設計施工一貫式だ。これとは違い、その前半だけ切り取ってやらせろというのは、設計だけにカネを払う習慣のないこの国では至難の技である。
設計の努力や成果をどういうかたちで一般に見せるかは、底なしの沼を歩くような難しさであるが、それでもやっと若い世代になって、オリジナルな空間の発見や、建築家自身の才能の優劣について気づき始めた気配がある。頼まれなければやってはいけない職業、食えずともやらなければならない職業がここにあるということか。


医師というある意味で似たような知識技術職業にあっても実情はまったく違う。国が管理する診療保健点数制という「保険」があり、「顧客」は、医師が探すのでなく「顧客」の方で探すのだから。
その医師であり経営にも明るかった私の岳父は、「(君の職業は)年間回転しないし、つぶしが利かない。住宅の一つ、二つやったって何にもならないよ」と言っていたが、ある意味でもっともだ。
私もよく、我々の職業は実業であるはずがない、虚業だと言ってきた。
ここには、「いい仕事」をするために金銭欲抜きで闘っているという考え方(医師にも、赤ひげ医者といわれる奇特な人たちもいて、そういう価値観は承知されている)は十分考慮の上での話なのである。


デザイン・設計業務が請負的に見られてしまうのは、これまでの知られた近隣業務がすべて「やってなんぼ」というイメージを持っているからだろう。見方を変えると、これは「考えやその経過の表現(いわゆるソフトに当る)にはカネを払わないよ」という国家的、国民的体質が滲んでいるといえそうである。だからこそ、日本を救うためには、知的財産についての本質的な理解と、このような実務面への国家的対応が大切となるのだ。
またそうすることによって初めて職業の分野相互の理解と評価も高まり、コラボレーションの意味が現実味を持ってくるわけだ。


もっとも共存意識の高かった高度成長期までは、「やってなんぼ」にしても、設計などという知的職に依頼するくらいの人は、途中で止めとなっても何とか話し合う余地があったと言えようが、契約化社会になってくるに従ってカネの価値ばかりが浮き上がり、これが悪い方に利用される場合が圧倒的ん増えているだろう。ここにも国家が無関心でいいはずがない問題がひそんでいる。


そもそも「好きでやっている職業だから文句もあるまい」と、よく言われる分野だが、知恵を絞って売上に貢献したり、会社のイメージを上げたり、トップの仕事の実践版をやっているとか、住み手の気持ちを最大汲んで計画している、と考えれば、そんな言い方をされて黙っているわけにはいかないはずだ。
しかし多くのデザイナーや建築家は才能があっても口べただし(たぶん一般には、才能があればある程、口下手、商売下手とも言えそう)、そもそも自分たちが置かれている「経済的な意味での社会的位置づけ」(それが窮地にあるのだが)についてほとんど知っていないと思える節がある。


こういう職業こそ、これからの日本を支えてゆくのに必要な職業であり、こういう職業にこそ、法的サポートを加えるべきではないのか。


ここには、個人で始める事業のための手助けという視点も入っている。
松下幸之助が「生まれ変わったら何から始める?」との、経済記者の酔狂な質問に答えて、「屋台ラーメン屋」と答えたという逸話があるが、それは次なる事業への原資を稼ぐためであって、一生屋台ラーメンをやるわけではない。事業家の仕事観というものはそういうものだが、建築家やデザイナーは、そうやって器用に職業を渡れるものではない。そこには当然、カネ儲けが本義ではないという自覚も潜んでいる。一般の経済人の事業価値判断とは違うのだ。


ここで総じて言えることは、このような職業分野の経済カテゴリーでの認知は、同じ個人を軸にして育てていくにしても、もしかすると、現行の企業体制の持つ価値体系を維持し、活かしながら進める変革とは同列に出来ないかもしれないということだ。ここで言う建築家やデザイナーに求められているのは、創造力の実現である。これには本来、時間を決めて判断できるような要素とは言い難い。
例えば、週休日を増やす、フレックスタイムを活かす、副業を認める、在宅勤務を増やす、出向き社員を活用するなどの考え方だ。
これらは現行の企業体系の序列(つまり企業、それも大きい方ほど正常、との考え方)を認めた上での、スライド・ルールであって、それも必要だが、個人としてのデザイナー・建築家を活かす経済ルールづくりには本質的には寄与しそうもない。


こうしてみて、デザイナー・建築家のような職能にとっての独自の経済的プラットホームの必要性が明確だとすると、日本経済の大きな流れの中で、見落としてはいけない構造が見えてくる。
まず、自己変貌こそあれ、現行の企業体系の自立維持が一方にあり、その傍流としての副業から育てるようなサブ展開のためのプラットホームがある。
経済人はここまでしか見ていないが、さらには、以上のようなデザイナー・建築家のような創造的文化事業化のためのプラットホームが必要であり、更にそれとは一応別の、全く個人の職業(芸術家、個人職人)育成というプラットホームもある、というような4つの踏み台が考えられるのである。


民主党政権にはこのような柔らかい思考が出来、実際に政策のまな板に載せられる人材がいるのだろうか。