BN@ 4億年後、5億年後には地球は消滅する

【大きな構想】




4億年後、5億年後には地球は消滅する


ここ十年くらいか、意識の片隅でじっとこらえてきた思いが、にわかに大きくなってきた。


丁度数日前、このようなタイトルのテレビ番組があって偶然目に止まった。
お定まりのように、今や世界遺産となったダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が消えてゆくシーンが出てきて、それは素材が木材であるために、人類が死滅し、空調が途絶えた画廊(ルーブル宮殿)の中で、食に飢えた白蟻状の虫が画面を食い荒らすという設定になっていた。


自分が、このころには生きていないから関係ない、と言ってしまえばそれまでだが、それが現実感を持つようになるなら、あらゆることが空しく、「後世に残る仕事を」などということがもっとも空しいこととなる。


実は、「我こそ後世に残る仕事を」などと思って、この半世紀を生きてきたのはこの自分だった。
どんな作家だって後世でも話題なることは楽しことだ。それからすると作家たるものは、少なからず後世を意識しないで仕事をしていないはずはないのだ。


こうしてみると、どんなに頑張ったって、この存在のベースである地球がある日、無くなることが事実であるなら……本当に空恐ろしいことだが、「生きているこの現実、この瞬間を楽しむ以外にやることがあるのか」という考えになってしまう。1分、1秒でも、後世を意識したとたんに生の意味は無くなるのではないか・・・。


唯今の気分はこのようなものだ。
すると、生きるためにカネが要る。そのために働くことはどういう意味になるのか。
食うに追われて人生を終える。もしかしてそれだって、「1分、1秒でも、後世を意識したとたんに生の意味は無くなる」ことから免れる道なのかもしれない、その仕事が楽しくなくても没頭出来さえすれば・・・。しかし空しい。


すべては虚無なんだし、人間はあらゆる目くらましの虚構を作って、生きる意味のようなものをこしらえて我慢しているのが実態だろう。
この読みが深いほど「どうせなら」と、人生を仮構で彩る虚栄の行動をする者が出てくるのもおかしいことではない。
結局、人間のやっていることは、死の前の酒宴でしかない。


結局、自分のやっていることも、この一例でしかないということだ。
それにしても、「1分、1秒でも、後世を意識したとたんに生の意味は無くなるのではないか」と言いながら、現実には日本の50年先、いや単に数年先のことだけなのかもしれないこの先を思っているとは、これが我が虚栄の産物か。