DEHJK@再度問う日本の融合文化発信力(その1)

【大きな構想力】




再度問う日本の融合文化発信力(その1)



改めて、日本の文化が世界で取りざたされていることを確認する。

「ジャパン・クール」としてかなり前から世界の話題になってきたものの正体は、わかっているようで、よく判ってはいない。ピカチューのような人形から、あらゆるアニメ、マンガを通じて、それは回転寿司から露天風呂にまで及ぶようにも見える。
確かに日本人自身が心底愛していていながら、これは世界には通用しないからと内うちに収めてきた習慣や行為、表現が、ボロボロとこぼれて欧米人の目に止まり、これは何だという辺りから、日本文化の愛好者になってしまう、そういう展開の繰り返しが日本文化の国際化に繋がってきたと考えられる。


すでに1970年代の初め、ミラノで見ていたテレビの子供用マンガ映画が、どう見ても日本製じゃないかと思っていたが、画面に「入口」という漢字が出て、やっぱり、と思ったことがあった。もちろん吹き替えだが、画面の少年、少女がイタリアで見ていてもそれほどおかしくないのだ。
日本のアニメ、マンガの神経の細やかさは、外国のマンガと比較するとすぐわかる。アクションの効果的な表現(アッパーカットの拳や腕が画面いっぱいになるなど)、ものうい雰囲気を出すのに、けだるい町の表情を描くだけで1頁を終わらせてしまうなど、感覚的な表現をどんどん取り入れている。


ミキモトに代表される宝飾真珠の技術や、輪島塗の伝統、加賀友禅、南部鉄器、各地の陶磁器、各地の染色織物技術、紙すき、大工棟梁職人の技術、さらには和風料理の極意まで、枚挙にいとまもないほど、あらゆる分野に日本の伝統文化は息づいている。


驚くのはこれらのほとんどが、個人の発意、個人の努力で進められてきたということだ。
個人の技に頼り、個人的事業でしかないこれらの職業を、国はこれまで相手にして来ていないのでは。補助事業をやっていないというのは事実に反するだろうが、ばらまきで片付くような問題ではないのに、カネが欲しい人、企業維持に腐心する経営者ばかりが群がる制度にし、やはり個人の資質買い上げというような視点には至っていないようだ。   


スタジオ・ジブリなども二人の気違い的なマンガ・アニメ愛好者によって、たぶん、アニメに関われればそれだけで幸せという若者を相手に、恐るべき安月給で浮沈を繰り返してきたに違いない。
世界的に話題になってみて、改めてこれを国策に、などと言い始める役人や大学教授などが出てくるのがこの国の現実だ。
確かに、好きだから止められないという強みと弱みが、文化的事業の足を引っ張る。


私見によれば、マンガ・アニメの日本での勃興には次のような事情が折り重なっていたと思う。


食べるだけでせい一杯という国力を脱していた
趣味や価値の多様化には大変自由な国になっていた
氾濫するメディア情報
一方、大企業体制社会は個人の自由を奪い会社人間しか育てなかった
国は、大企業中心の体制を維持すれば国力安定、と個人事情を斟酌しなかった
自由(無責任だが)を得た個人は、自分の好きなことをやって生きたいという願望が大きくなった
こぼれた個人にはフリーターになるなどしながらも、好きな道を極める者が出てきた。


一方、建築家とかプロダクト・デザイナーはどうなのだろうか。


建築家は、簡単に言うと理念と市場を取り違えていたのだと思う。


建築家は、国家的記念像としての駅舎、ホールや体育館を建てる必要もあって、明治以来、国の関与が大きく、それは東大工学部を中心に行われてきた。そこにコルビジュエに師事した前川、丹下らが「個人ベースの立場で」発想し「建築家」という職能の存在をこの国に植えつけた。ここに理念は輸入もの、日本の一般市場は知らない偏向した建築家像が生れた。


建築の理念とは、ヨーロッパの近代芸術運動との関わりから発生した考え方だが、日本には、個人の概念も運動理念のベースも無かった。実態としてあった大工の棟梁に当る者がヨーロッパの理念を理解するはずもなく、国も理解しない。ただ技術導入の観点から、東大工学部出身者にいわば全権を預けたのだった。
市場とは、その多くが個別のクライアントである個人住宅の注文者であるが、大工に頼めばよかったものが工務店に移り、そこには建築家などという職業の存在は必要もなかったのが実態だろう。理念に乗ろうとした建築家はこういう市場の存在を無視することとなった。


思い上がった個人を描く建築家像に国は辟易、国民は無視となり、放置された市場はハウスメーカーによる企業論理の跋扈を許す事となった。
このあとは知っての通りで、姉歯事件以来、設計の本質を問題としない(する必要もないとする文化認識の)国(実際は行政担当部署)は、設計規制を強め手続きを複雑にし、個人能力としての設計力否定から結果的に小事務所つぶしに加担し、自らの責任を逃れた。
「責任を逃れた」というのが行政側から見て適切でないとし、その意を汲んだ解釈をすれば、いい加減な設計をして国民や行政に迷惑をかける偽設計士や業務能力未了の設計士は排除されて当然であり、高い技術水準を示してハードルを上げるのは正当である、ということになる。ここには設計の感性的側面は考慮出来なし、する必要もないとする立場で貫かれている。それが厭ならなら日本に居るなという立場である。


建築家協会は、すでに理念を失い事務屋になった者たち(本人たち弁護のために言うと、日本の現状では事務屋的対応でないと事務処理出来ないし、行政や近隣業界の了解も得られない。それでも自分を事務屋とは思っていないはずだけれど)によって、結果的に行政の追従組織になりつつある。
すでに出発点より間違っていた運動体としての協会はその命脈を終えつつあると言えるだろう。


それも仕方のないことで、個人能力を信じて頑張る小事務所は、別章でも論じている通り(「デザイナー・建築家の生きれるプラットホーム」参照。このブログでは翌日28日の記事)、うまい人間関係から業務の相互委託協働(コラボレーションという)でも貰えない限り、本当に才能があり建築や都市を愛してる能力者であればあるほど、現行の責任の明確化に伴う契約化社会の進展、技術と情報の高度化と拡大、事務業務ばかりの拡大についていけず、そのことが食っていくためには、理念的で一段と抽象化してしまった「建築職能理念の組織的実行」など相手にしていられなくなってしまった(実効的には、何をやっていいのか解らない)その一方で、この転機に拡大と安定を願い、組織的に動ける大手設計事務所や、実際の設計行為では苦しまず、管理業務的な生き方を目指す小事務所経営者などからは、名誉か、管理体制の自己都合化からは別にして、まだ人が出せ、運営に参画する意味があるからである。


真の建築家にとっては、それこそスタジオ・ジブリの例ではないが、喰えなくてもやる連中でしか維持できない、改めての出発点に差し掛かっていると言えよう。
ただ、個人では対象も個人(住宅程度)でしかなく、アニメのように著作権や放映権で大きく稼ぐことが出来ないし、業務自体にメディア性がない。線一本の意味をお節介と思われるかも知れない顧客に説くような、布教的義務観に苛まされつつ、設計料単価を上げざるを得ず、他方で自分たちの仕事をうまい形で作品集、表彰、メディア展開などで大きく見せる仕掛けも必要だが、実行上の前途は暗い。


つまり個人才能を信ずる「建築家」は、地場産業的で身の回りの問題に明け暮れ、日本文化力を海外に発信するどころではない、ようにさえ見える。
それが現実だろう。


しかし日本の建築文化は世界に名高く、一方、都市の混乱も名高い。
都市の混乱の理由は、以上からもすでに明らかである。つまり現代については、国や地方公共団体が才能のある個人能力(本当に好きで、収益を無視してもやる仕事を持っている者)を評価し、それらの個人能力の連携と、そこからの個人能力者たちによる相対評価を重用しない(業務を委任しない)一方、防災や耐震の立場から安全を優先させたはいいが、その技術診断基準を難しくした事も加わり、建築・まちづくりは感性を相手としない技術者と、手続きのうまい者優位の仕事になってしまったこと、残りを受けた意匠家としての建築家は取り締まる者のいないところで「勝手に遊ぶ」しかなかったからである。
こうして見た目の日本のまちは見るも無残な光景を呈するようになった。
これは今後の観光行政にも相関して、重要な問題を残している。

(後に続く)