小池岩太郎先生を偲んで

【情報】(建物を建てようとされている方々向きの内容ではありません)


小池岩太郎先生を偲んで、集いがあった。

小池先生は東京芸大で僕らの先生だった。一番知られているのがGKデザイン・グループの生みの親だったということだ。
GKは、当時学生だった栄久庵憲司さんらに与えられたいわばアルバイト仕事を始めるについてつけられた名で、「グループ小池」の略だったのだ。それは僕らよりずっと上の世代の話だ。


どういうわけか教え子代表で挨拶させられたが、うまく話せたとは言えない。
なぜなら40人ほどの出席者のほとんどが先輩。そうそうたる人も少なからずの会場だ。おまけに小池先生と「深く付き合えた」仲ではない。
先生は上の世代との間に大きな教員実績を創ってしまわれたようで、僕らにはただ偉い先生という思い込みしかなく、落ちこぼれのような学生だった僕は教官室に行くのが苦手だった。
それでも卒業間じかには、相談せずにはいかず、訪ねては「軽くあしらわれた」。
この辺のことは拙著に書いた。
それでも10年間のミラノ生活から帰っての結婚式には、仲人をして頂いたことを記せば、献辞の一つは書くべき立場にあるといえるのだろう。


先生は、亡くなられる前の何年かは、毎日のように水彩画に没頭していられたことがわかった。作曲者名は忘れたが、クラシックのある曲が大好きで、しかもそれを大音響で聞くのだそうだ。このために家の窓を閉め雨戸も閉めて聞く、ということだったとは、最後に挨拶された息子さんの話。音が漏れていないか締め切ってから外に調べに出た、という微笑ましい話もされた。情景が浮かぶよう。


最後に、この水彩画(原画)が参加者全員に、何と1枚づつ配られ(それほど描いたのだ)、思い出が一層深いものになった。
先生の絵は、サーッと描いたにしては素晴らしく闊達で上手いものだった。やはり本領はここにあったのか、と思わずにいられない。
というのも、デザインの仕事のスケッチや図案も並べられていて、初めて見たのだが、創生期を泳ぐ悩みのようなものが感じられ、水彩画のようなわけには行かなかったようだからだ。



(思い出すことがあれば、更に後記)