原研哉氏の話を聞いて

【論】


デザインと建築―その「情報」の格差と、創造する個人の位置



この前のブログでの、マンジャロッティの話の続きである。
それが、なぜ原研哉さんの話となるのか、しばらく書いてみないと自分でも簡単には説明できない。
「これでやれる」と思った設計の夢が、どういう紆余曲折を経て現在の自己の設計思想になっているのかは、原さんの領域を観察することによって、より明確になるように思うのだ。それは「情報」についてどう捉えるかという点で、はっきりして来そうだ。
いずれにせよ、自分の人生経験の中からのデザインと建築のからみと落差の話となる。そのためにはしばらく、原さんの話をしなければならない。


原さんとは、出版物から素材や日本人の感性からデザインをうまくまとめる人としての認識程度で、不思議なことにこれまで一度も逢ったことが無かった。その彼が「JIAトーク」という催しに招かれたのだ。後で一緒に食事をしながら判ったのは、何のことはない、旧知の松本哲夫さん(剣持デザイン研究所代表、僕も一時在籍)などとは十分懇意だったのだ。
少し蛇足だが付け加えておくと、それは、デザイン会社でありながらヴィジュアル系では伝統的に権威のある「日本デザインセンター」(原さんは現在、代表取締役)や、私的機関の「デザイン・コミッティー」(デパートの松屋を起点に)などに関わるグループがあって、それなりに外部からは閉鎖的とも見える組織を形成してきたこととも関係する。


原さんの話を聞いて、質問してから段々判って来て、最終的にはほとんど明確に自己理解できた。
話(講演)が建築家の集まりであることを意識してか、「スケルトンとインフィル」とか、「家(いえ)」への経済社会の軸の移動とかという内容が中心となり、聞いていて「もっともなことだ」という納得とともに、じゃあ自分は同じようなことを問題の視野にいれながら、あまり関心が無かったのはなぜだろうと思わずには居られなかった。


結論から言うと、彼が最後の方で言った「グラフィック・デザイナー(G.D'er、以後、職能も含めてGD)である」という言葉ですべてが溶解したように思えたのだ。
グラフィック・デザイナーは広告、広報メディアに関わって育ってきた分野の職分で、このため情報リテラシーへの下準備は情報化時代と言われる前から備わっていたと考えられるのだ。
そう考えると、彼が僕の質問、「自己の内面的な問題として、コーディネーター、プロデューサーのような立場と、クリエイターである立場のどちらに立つか、あるいは自分をこれらの間でどのように位置づけているか」に答えた内容が紐溶けてきたのだ。
彼は 「前者であることによって、クリエイターである」 と考えているのだ。
このため企画プレゼンテーション事業は、まさしく彼にとって創造的な仕事であり、このために来年やるという、LIXILなどを巻き込んだイベントについて、それなりにの時間を割いて説明したわけだ。


ここではたと気がついたのは、プロダクト・デザイナー(P.D'er。以後、職能も含めてPD。すでにあちこちで述べたように、インダストリアル・デザイナーという総称もある)との出生の違いだ。PDはモノとしての商品をリファインするという役廻りから入っている。ここにあるのはあくまでソリッドなプロダクトであり、「ある情報を他に伝える」という情報の考えは無かった(すでに了解頂いていると思うが、「芸術情報を伝える」という意味の「情報」は根源的な出発点であったから、その辺りの「情報」は除いて考えている)。後からマーケティング(市場分析)のような情報的な考えが、モノの生成の前や商品化の後にあるとして理解され出したわけだ。
それでもこんなに早くモノが豊潤になり、発展途上国の追い上げが急だとは思えず、「PDの情報化」には追いつけなかったと言える。(その理由には、企業戦略としてもPDのやるべきことは多くあったし、技術レベルの向上への対応も多々あったからだ。追い上げ側から見ると、コンピュータ技術の飛躍的向上が、いわば秘伝として蓄積されて来た工業製品におけるモノつくり技術の核心を、いとも軽々と結果をコピーする形で乗り越えてしまえたということもある)。
それでもと言うべきか、そうであるためにと言うべきか、少なからぬPDは、「カタチを生み出すことがPDである」という奥深い教義のようなものに捉われ来たと言える。それが結果として情報リテラシーへの関心度を低めてきたと言えるのではないか。


実は建築家も「カタチを生み出すことが建築である」という呪に捉われている。だから「情報」を騒ぎたて、カタチを疎かにする建築家には本心ではひややかな眼差しをむけている者が少なくない。この点で、建築とPDは同じ穴のむじなだ。


こうしてGDと、PDや建築とのメンタルの差が明確になってくる。そういう意味ではGDもPDもデザインとして一括してしまい、建築と別けるくくりには問題があるというものだろう。
俗に、GDにPDなどが飲み込まれてしまうという考えがあるが、それはGDのメンタルならPDも、建築も都市も、「情報の一環として」処理出来てしまうように思うからだ。
原さんはここを予感してか、しきりに「建築家の皆さんを前にして(失礼な言い方ですがとか、釈迦に説法でしょうが、という「前置詞」が続く)」が多かったが、僕と名刺の交換をした時も、「いい加減なことを言っています」との一言だった。


ここで、建築の方に足を突っ込んで深く傷つき、また深く愛するようになった問題意識が浮かび上がってくる。それは「個人の立場」と「創意の姿」とでもいうようなものである。
建築家となると、どうしてもこの関わり合う二つの問題を放置して通れない。そこに、それが好きでこっちまで「足を延ばした」自分もある。そしてまさしく、そこにマンジャロッティも居るのだ。


マンジャロッティの魅力と限界はまさにここにあって、「情報化」の道を、技術のスタンダード化や新技術、新素材の活用の方に見出し、「個人の立場」や「創意の姿」を捨てはしなかったのだ。
だが技術依存のモダニズムは結局、追い越された。
近代以後のモダニズムにあって、常に高く評価されてきたのがこの、個人の力量による創造力というもので、ここに最後のモダニズム建築家と言われる立場があった。そしてクリエイターとしての個人の問題は未解決のまま現在に引きづらている。(「ポスト・モダン」の活動はまさに創造する個人を、時代の中ではっきり意識した運動だった)。


結論として考えると、プロデュースがクリエイティブであるかどうかは、クリエイター個人の内面的了解に掛ってくるのではないか。PDや建築の実務をやってくると、最終的にはモノや空間に落ち着かせないと仕事をしたことにはならない、という意識が絶対に抜けない。そこを馬鹿正直に表に出すかどうかは別にして。
そして、まさにそのことによって、創造のプロセスについての方法論としての「情報化」が、問題として表に浮かび上がってくるのだと言えよう。それは従来のマーケティングでもないし、科学技術的な解答そのものでもない、個人の創意を生かすための「情報化」の創設なのだ。そうなると、それを活かすための社会構造というものも問題分野に組み込まれてきて(*)、今度はそっちで溺れかけているのが現状だろう。



関連記事紹介(フラッシュ・バック):

(*印について):とてつもなく従来感覚のデザイン的でない考え方として、創造する個人を活かす途を考えた結果、例えば次のブログなどを参考にしてもらえれば、ある程度理解頂けるのではないかと思う。2009/12/13の記事の中にある、「国家戦略室への提案」


プロダクト・デザイナーでありながら、デザインを「情報」として扱い、「間」を問題とし、自意識からデザインすることを捨てたデザイナーに深澤直人氏がいる。2010/10/01「深澤直人さんのこと」


自己の職業展開がもたらしたものを位置付ける発言としては、2009/2/24「マルチ・デザインの得失」