向井さんへの結論

【論】超硬派論議のまとめになるか


向井周太郎さんの続き、最後だ。




理想主義だと言われるかも知れませんが、と、ことわった上で、「デザインとは、あるべき生の全体性としての生活世界の形成」であり、「デザインは社会の希望を照らし出していく生成装置である」と言って来られた向井さん。
そこには、「近代デザインという概念と行為は『希望の原理』とその『理想』の形成と結びついて生まれてきたからです」という自負が込められている。



ここまで来て、その純粋な思考の経過には共感と頭の下がる思いだ。
それでいて、やはり僕とは違うなという思いも深まる。

言葉という観念の檻に閉じこもっってしまった人、ということだろうか。
デザインは「やってなんぼ」、という世界でもある。
言葉にしているうちは、発想が自由に舞い、あれも可能、こうでもある、と考えが動く。しかし、それは現実に見えるものではない。
最近流行りのようになっているコミュニティ・デザイン。その師と目される山崎亮氏などはまさしく、行動の人なのだろう。でも社会で行動して何かをまとめるということは、デザインの概念としては比較的新しいことだ。そしてそのやり方が向井さんの考えの実現には近いのかも知れない。


思うに向井さんは、あまりにも理念面からバウハウスに思い入れし、その影響から抜けられなくなったように思う。言いかえると、人間の自由と可能性を突き詰める手段としてデザインの概念を活用し、それを展開させた、ということかも知れない。
そのデザインの概念とは、辿って行けば機械時代の到来と近代の芸術観が創り上げた人間観によっている。そこにナチスのような恐るべき人間観が振り出されてきたことによって、デザインで考える人間について、現代を捉える信憑性が一気に増したと考えられる。


ここで、もしかして重要なのは、向井さんが美大のデザイン科などでなく、早稲田の商学部の出だということだ。商学部では経済理論などを専攻するだろうが、視覚的な表現は求められはしないだろう。一般には20代までの思想形成の環境は、その人の人生に決定的な影響を及ぼす。そういう経歴からすると、向井さんご自身が自己の造形表現のあり方について悩んだという形跡は少ない(詩化したデザインへの思いをグラフィックにレイアウトする、いわゆるタイポグラフィック・デザインとしては努力されている)。ここには造形表現から悩み始めてきたわれわれと、決定的な違いが生じてしまう。


こういう捉え方は姑息にすぎるかも知れない。いずれにしても、このようなわれわれの先達が、僕の認識ではほとんど専門家の間でしか知られていないようだ、ということに、大きな失望感を抱く。