デザインミュージアムをめぐる話題

【情報】(1月10日ブログでの本件予告を受けて)


良い話がうまくいくと良いが



必要な運動の一つとして挙げた「国立デザイン美術館をつくる会」の経過について少し説明し、別途いくらか詳報が入ったのでこれを伝え、少々論じます。(以下、である調)


再録だが、三宅一生氏と青柳正規氏(国立西洋美術館館長)の「国立デザイン美術館をつくる会」の記事が去る1月9日の朝日新聞夕刊に取り上げられていた。タイトルは「デザインで日本に希望を」。記者は縁のある大西若人氏他。
この記事にもあるように、2003年1月28日の同夕刊に「造ろうデザインミュージアム」と言う記事で三宅氏が言っており、これを別の視点から受けるような形で、同年6月頃か、同じコラムに、僕がJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)のデザイン・コレクションのことを書いたことがあった。
その後、しばらく経ってから、ブリジストンが創設している石橋財団の石橋様の計らいで、三宅氏と会ったことがあった。財団がJIDAのミュージアム委員会を支援してくれていることと、ミュージアム設立への趣意を汲んでの招待だったと思う。
新聞記事によると、「この三宅寄稿が契機となって」赤坂のミッドタウンに「2121デザインサイト」が設けられたという。


三宅氏は多摩美術大でデザインを学んでいて、現在ミラノで活動中のプロダクトデザイナー蓮池槇夫氏などと受験時代を過ごしたとか聞いたことがある。つまりデザイン仲間なのだ。
こんなことからしても、三宅氏がファッションに留まらずデザイン全体に対する思いが深いのは推察できる。


こんな経過を経て「国立デザイン美術館をつくる会」の運動を立ち上げたようだ。
このことについて、JIDA浅香理事長から僕にもたらされた関連情報がある。承認を貰っていないので、僕が理解したこととして簡略に伝えると、


「この『つくる会』のシンポジウム前後、JIDAは60周年事業で動きが取れなかった。
D-8(通産省時代から続くデザイン系社団8団体の総称)に属する洪さんという方が、青柳さんと何人かの関係者と面会して聞いたことによると、D-8のデザインミュージアム関連事業については、
『…すべてはこれからということで、これまで各分野の有形、無形のストックを持つD-8の存在や活動についても注目している…コンテンツやストックを持つこのような活動体とは是非連携をしたい』とし、『次回は来年4月20、21日に仙台メディアテークで2回目のシンポジウム・パネルディスカッションを行う予定で、そこにはD-8のJDM(JIDAデザインミュージアム委員会)もパネラーとして登壇してほしい、ということだった』
という報告が入っており、新年度のD-8の親委員会で検討する予定となっている」


とのことだ。


ところで新聞記事に戻ると、青柳館長(独立行政法人国立美術館理事長でもある)はさすがにいいことを言っている。僕らが言うべきことをうまく代弁してくれているので、少々長いが引用させてもらうしかない。


「日本美術の伝統を顧みると、桃山時代からデザイン的なものが主流になっています。西欧では18世紀の産業革命で工業生産が発展したが、近代化が遅れた日本では伝統工芸が生き残りました。そのデザイン性が19世紀に万博などを通じて欧米から注目され、今日でも日本はデザインの優れた国と認められています。
そうした日本のデザイン性をきちんと位置づける施設が必要だ、と以前から考えていました。対象となるのは、桃山時代の工芸から現代のファッションやプロダクト、建築のデザインまで…
…「ハコもの」には議論もあるでしょうが、デザインという文化的概念を説得力のある形で提示するには造形的なフレームワークとしてのハコが必要だと考えます…
こうした包括的な施設・組織には相当な予算と人員が必要なので、国立美術館として構想してます。デザインは衣食足りて社会に何かを付加しようとする行為であり、社会の質を高め発展させる原動力になることを訴えていきたい」


ついでに、簡単に掲載されているこのシンポジウムでのパネラーや評論家の意見のうち、良いことを言っている部分を再掲載。
「大量生産されるような製品は、その時は誰も大切にしないので残りにくい。でも、それも日本の日本の足跡となる。だから、国が運営することが重要。質感や空気感を身体で感じるためにも、場所が存在することが大切だ」(佐藤卓氏・グラフィックデザイナー)
「いま、生活の豊かさをはかる尺度が経済にしかない。そこにデザインを置くことで、生活の質が理解できる」(深澤直人氏・プロダクト・デザイナー)
「デザインをこれからどうしていくかという時代に、歴史の中で客観視して位置づけ、方向を見定めるには、相対化できる場所が必要。それは公的な場所であるべき」(田川欣哉氏・デザインエンジニア)
「ウエブ上にデータがあれば、場所はいらないのか。…同じ空気を吸いにきて次への展開が生まれるような場に…」(工藤和美氏・建築家)
日本のデザイン美術館として何が必要なのかについては、「むやみに幅を広げず、失われつつあるものから収集を」(柏木博氏・デザイン評論家)とし、対象としてグラフィックデザイン、家具・食器などの日常用品、家電を挙げ、さらに教育的な配慮も望んでいる。「日本の学校教育では、デザインが持つ社会的背景を教えていない」からだ。


これに対して文化庁
「新たな施設を今すぐ検討する状況にないとして静観している。ただ、国会議員連盟が発足した場合は対応を考えることになりそうだ」
と、大西、西岡氏。
最後に、「海外から『デザインの国』と評価されながら、国内ではその重要性が必ずしも認識されていない。そんな実情が浮かび上がる」としている。
これは当方もいつも言っていることだ。


以上が国立デザインミュージアム構想のイントロ顛末だが、ここにすべて語られているように、いいことなのだからぜひ早く実現してほしいものだ。
ただ注意すべきは、視覚的なモノや空間はその存在を示すが、デザインの思考性や展開経過を必ずしも表現するものではない。ミュージアムはエンジンにはなるが、車の片輪だということをしっかり理解する必要があろう。


【2013年2月7日追記】
●●これまで本ブログで述べてきたことの要旨が「それ」である。次の、1月19、25、26日辺りの記事にその片鱗が見えると思う●●