NPOへの寄付を募る運動

【論】

―もし、問題を共有しているなら、自分の考えを代弁してくれるような運動や組織に、寄付という経済行為で応じるという民間文化が、そろそろ育ってもいいんじゃないか―NPO日本デザイン協会のために考えていること            


米国で成功しているNPOの多くが寄付に支えられている、という―
「寄付文化の芽、日本にも」



このところ新聞記事からの転用が多い。
話の糸口に都合が良いからだが、そもそも関心のある問題であるからに他ならない。それにこれだけの複雑で時間軸でも変化の激しい社会になってきたのだから、違う専門領域や時事問題については、賛成できるならその分野の識者、経験者の考えを拝聴するのは正しいと思うのだ。

そこで今日は、「センスを生かし資金集め」というタイトルのNPOを主題にした記事から(朝日新聞1月24日)、鵜尾雅隆日本ファンドレイジング協会代表理事の意見。


「『社会変革型寄付』、もしくは『未来への投資』ともいえる感覚の寄付がアメリカには定着している。最大の理由は、行政に依存しない社会システムがあること。また市民が社会のニーズを把握し、自分たちで解決するという自立した国民性によるだろう。
…日本では街頭募金が一般的。でも…(成功体験になる)報告があるわけなく…加えて、『税金を納めているのだから社会的な課題は行政がやるべきだ』という意識も根強い。


それは東日本大震災を機に変わった…(8512万人、15才以上人口の75%の人が金銭・物質による寄付をした。総額約6000億円・法人を含む)…『寄付元年』という指摘も…

…流れをを後押しするように、2011年6月の税制改正で、確定申告をすれば、寄付額の最大50%を納税額から差し引くことができるようになった。


だれかのために自分のお金を信じて託す。これが『寄付』の一番大切な部分。日本はそのステージに着実に向かっている。受け取るNPOや団体の側も、その信頼を受け止めるにたる事業の質と説明責任が求められるだろう」



この考えをNPO日本デザイン協会のために活用できないだろうか。
そのためには寄付活動を、受難者、貧困者、弱者という、「ひと」を意識するこれまでの考え方や感じ方も改めなければならないだろう。


「デザイン」の問題とは人もあるが、その場合でも、能力、環境、年齢、取り組み対象、個人とグループなどによって判断が多様化し、評価軸の設定が難しそうだ。つまり人への投資(NPOからの寄付)はなかなか難しそうだ(もっとも将来的に選考基準を明らかにし、社会評価に耐えるものが出来れば別だろうが)。
それとは別に「デザイン」の社会的価値を高める運動―少々抽象的だが―への寄付行為には、「追い詰められているデザイナー」の立場からしても、納得いくものがあるのではないだろうか。でも、多分それは「同業者」の間でしか成り立たないのかもしれない。


何よりこの考え方に至るのは、現今の日本の政治と行政があまりにも「デザインやアート」の経済価値に「実質無関心」だからだ。
それだけに、この新聞記事のアメリカの例にある刑務所を出た女性の社会復帰を支援するNPOの代表者の話で、ちょっと「弱者」対象の内容だが、「公的な資金をもらうと、干渉や制約もある。ビジネスセンスを生かした自分たちの方法で、社会的な課題を解決したい」と言う時、まさしく同じような考え方でやってみたい、やれないかと思うのだ。
行政や政治のサポートを待ってはいられないし、万一補助金などもらっても、無意味な制約が多過ぎるだろうと推測されるからだ。


ここで前回19日に書いた、坂口恭平君の言い分につながてくるものがある。「デザイン」なんだから「アート」にしたって良いわけだろうし、貯まったらいっしょにやろうね、というのでもいい。
しかも相手が見えにくいから、効果は10年、20年と言うロングスパンで考えなければならないだろう。そんな第一歩なら、もう始めるべきなんじゃないか、と思えてきたのだ。


もっとも、ルールと公平性のためには理事会の承認が要る。これから相談してみたいと考えている。



【2013年2月7日追記】
●●最近述べていることは、このブログを始めた時とまったく変わっていないと思えるようになってきた。
2007年の正月3日、ほぼ6年と1カ月前の本ブログの始めに当って、述べていることは今と変わりない。
「具体化のための錯綜する思考の整理に悩む新年の幕開け」がそれ。
また、同じ1月25日の「NPO『日本デザイン協会』の可能性」の記事もしかり。●●