イタリア車に見る美学

【新トーク:モノ】(写真:ランボルギーニの各車)  ●印:2013/8/17追記あり



イタリア車に見る美学



車気違いはたくさんいる。
しばらく前に裏日本の高速道で、何台ものフェラーリランボルギーニ、マセラーティが互いに追突して話題になったことがあった。もしかするとフェラーリ・クラブとかの単一車種だったのかもしれないが、それはどうでもよい。愛好家たちのパレードまがいの旅行だったようで、ある車がブレーキが利かなくなって追突し、連鎖で多重衝突になったようだ。
上空からの遠距離写真が、なんとも痛ましく、しかも何となくおもちゃの衝突みたいで滑稽な感じ。1000万円をはるかに越える、このような車に乗っている奴がいるんだなという気持ちからか、週刊誌などでは「それ見たことか」と嘲笑気味に扱われていた。しかし、日本も豊かになったものだという気持ちにはさせる。最近の妙な株の値上がりでか、このような超高級車の売れ行きが何十%も伸びたとも聞く。株の配当で浮いた金などをこのような「遊び車」に廻す者が多いのだろう。

そういえば、逆の現象もある。私の息子などは「荷物が積めればいい、走ればいい」としか思っていないようで、車は「下駄履き」扱いである。しかし、1960年代の日本では車はステータスだった。学生時代に、車で大学に来始めたクラスメイトがいて、皆の羨望の的になったこともある。本人は「アルバイトで買ったんだよ」としらばくれていたが。この時代の記憶すべき国産車はスバル360とホンダN500、それにトヨタ・初代コロナ、日産・初代ブルーバード位か。それぞれには当時を知る人たちにとっては、手に汗を握るような深い深い努力と愛情のこもったストーリーがある。


こうしてみると車気違いも含めて、車への見方にはいくつかの視線がありそうだ。
時代と流行からみる車という社会派的認識、ステータス・シンボルとしている見方、機械愛好家やマニア・コレクターの偏愛、必要だが考えたくないという目線などだ。フェラーリランボルギーニの所有者は二番目のステータス、いくらかは三番目の愛好家に属するのか。
だがここにあるのは車の目的別区分とでも言えそうな分類であって、これを「美の対象としてみる」となると、これらの内のどこかに含まれるのか、表立って唱える人が居ない。実際、「車の美術展」なんて聞かない。
しかし私は、ランボルギーニのスタイリングには、褒めすぎてもいい賞を与えたい。特に1974年辺りから出始めた「カウンタック」(LP400、500以降)には。


●ここで言っておかねばならないのは、このようにスタイリングもあるが、フェラーリやマセラーティを含めて、これらの車にはどうしても「血が騒ぐ」何かがあるということだ。フェラーリで実際、デザインしてきた奥山清行は「その世界観のどこかに何かー名状しがたい危うさや、人間の持つ儚さ(はかなさ)のようなものを感じさせるのは、フェラーリをおいて存在しない」という。
そこに個人の思いに全幅の信頼を置く、ヨーロッパの血と文化の存在を感じさせる。
かれは言う、「『個』を徹底的にフェラーリする彼らは、自分が何を好きかをよくわかっている。それゆえ『周りは何と言おうと、私はこれが好きだ。だから買う』となる」と。「販売が日本の『ものづくり』の弱点だと私は指摘したが、こうした主体性の無い価値観をめぐる国民性も、弱点を克服できない背景の一つである。産むのは『ものづくり』に関わる人間でも、ブランドはあくまで顧客が育て上げるのだ」。
まったく同感である。


これらの車は、宝くじでも当たらなければとても持つことは出来ない。一代での成功者がファンの多数だという。また、僕自身も「車は走ればいい」と思っている組だ。だがこの美は、近代が生んだ機械美の存在を疑うこともなく成し遂げ、証明して見せた好例である。それは、コストだ、エリート社会だ、性能や居住性に問題だなど、何でも理屈を挙げさせる余裕を一切与えない。よほどのことでもなければ、安全、性能上の問題でさえ、運転の仕方がわるいからだと言われてしまいそうだ。
それは、ただただ「自己の存在を主張するモノの美」なのだ。