丹下健三が変えようとした東京

【新トーク:空間】(写真:東京計画―1960)




丹下健三が変えようとした東京とは


1961年正月に、この時48才で東大助教授だった丹下健三は「東京計画―1960」なるものを発表した。
建築家の間ではよく知られているが、東京湾をまたいで千葉の木更津まで直線のブリッジをかけ、その両側に枝葉のように住区を展開したものだ。住区は、他の提案でも使った富士山型の高層ビルが建ちならぶ。全部同じ方向だ。
海面下の構造については知る限り、どこにも説明がない。
そんなことはどうでもなる、と思ったのか。そこには東京の人口増加に対するのに、高度成長期のこの国の持つ超楽天的な世界観で向かい合うというのと機を一にしたようなところがある。千葉や川崎の沿岸にも、何かわからぬ均等な広さの巨大な造成地のようなものが連なっている。
つまり、この模型による表現は、ヴィジュアル効果を狙ったスペクタクルだったと言えよう。
ただ、そんなことは判り切っていたというわけか、学会も大学も建設省も取上げず、扱ったのは元旦のNHK特別番組だった。「どこもこんなプランを扱わないが、メディアは扱った。メディアと都市の未来プロジェクトというのは、いろんな意味で繋がりがあるのだろう」(*)と一番弟子だった磯崎新が言っている。
確かに、予算、行政上の問題、技術、居住環境などどれを見ても建つはずがないと今なら思えるが、当時の空気では実現できたらすばらしいだろうな、という空気はあった。そこに成長への限りない信頼と未来への楽観を見ることが出来る。
大幅に予算が足りなくなった国立屋内総合競技場(現国立代々木競技場)でさえ、「(丹下は)当時大蔵大臣だった田中角栄のところに話しに行っています」(磯崎*)で、カネが下りてしまった時代だった。


それにしても不思議なのは、海上都市ということを別にすれば、こういう考え方の出発点はすでにル・コルビジュエが、1925年にパリでの「ヴォアザン計画」で出していて、その機能主義的で画一な形態に批判も出揃っっていたのではと思えるのだが、そうではなかったようだ。
「丹下さんの右腕だった神谷宏治さんの話では、丹下さんはローマクラブの会議で「成長の限界」の報告を知って衝撃を受け、日本に戻るとすぐに資料を取り寄せて、スタッフに読むように指示したそうです」(大田佳代子*)
それは東京計画の発表から数えて11年後の1972年のことだった。すでに国立屋内総合競技場(1964)、東京カテドラル聖マリア大聖堂も同年に竣工した後だった。岡本太郎の「太陽の塔」で知られる大阪万博の大屋根を含めたプロデュースでさえ、1970年に終わっている。「成長の限界」は実に丹下にとって大きなターニング・ポイントになったのではないだろうか。それ以後の設計で引っかかるのは、アラブでの仕事を別にすれば新東京都庁舎くらいだ。

他分野から見ると、実務社会の仕事に大学教授が俊秀な学生を多数、手足のように使えることにも疑問がある。丹下はそれだけの、受け止め、また発信する創造的才覚の持ち主だったのは納得するとしても、思うに東大助教授、教授であったことを含め、その上でまったくの「これを待っていました」というような時代の波に乗り合わせたラッキーボーイだったと言えるのだろう。
そうすると、「東京計画―1960」は、そういういわば有頂天の時の、造型美を意識した彼の自分へのオマージュではなかったかと思えてくるのだ。
(*印部は「芸術新潮」2013/8月号特集「知られざる丹下健三」より)