官僚が描くヌード

【新トーク:アート】(写真:百武兼行「臥裸婦」)



官僚が描くヌード



驚くべき絵である。
関連する理由はたくさんあって、箇条書きにでもしないと整理できそうにない。
まず、この絵が描かれたのは明治14年(1881)頃である。描いた場所はローマであるが、作者は日本人で、今で言う官僚だった。
この年は明治維新とされる1868年から13年しか経っていない。
こんな時代にローマに「遊んでいた」日本人が居た、とはまず驚きである。
実は同じ頃、パリで同じような西洋技法でヌードを描いていた男がいたことは居た(五姓田義松)から、この頃には先覚的な日本人がどっとヨーロッパに押し寄せていたと見るべきなのかもしれない。
ちなみに黒田清輝が最初にパリに行ったのが明治22年(1889)頃と思うが、18才位だった黒田でも男がこの絵を描いていた時より8年は遅れている。
作者は百武兼行(ひゃくたけかねゆき)で、この年ですでに39才だった。
この絵は、画塾だったからだろうが、居合わせたのか19才位だった松岡寿(まつおかひさし)と一緒に描いているのも驚きだが、松岡は長生きして昭和19年(1944)82才で亡くなったから、彼の伝記や評伝でもあれば、いろいろ知ることもありそうだ。
39才の男が描いた絵はさすがに19才とは違っている。
黒田もそうだが百武や松岡も、ヨーロッパに着いて「泰西名画」を見たとたんに、何の苦労も無く、すぐに「洋画」が描けてしまった、という印象が拭えない。維新の前後には、どんどん「洋画」が入ってきていたのだろうか。

続く驚きは、百武が29才の明治4年(1871)で、佐賀藩鍋島直大の側近として渡米、翌年ロンドンで経済学を学んでいることだ。 さらに明治7年(74)の佐賀の乱で一時帰国。 同年には再渡米していて、翌年から直大の夫人と一緒に油絵を学び始めた。 明治11年(78)には、もうパリに居て画塾で勉強。 明治12年(79)に一旦帰国後、今度は直大の随員外務書記官としてローマに渡り、明治15年(82)まで滞在した。最初の渡米から、この間11年あまり。 3度の出国、アメリカではどこに居たのか、そこからパリやロンドンにも行っているわけだ。現代でこそ、やっとおかしくないような何度もの外国滞在を、この頃既に実践していた男がいたという驚き。しかもかなりの日々は船上だっただろうに。言葉などはどうクリアーしたのだろうか。

その次の驚きは、さすがに明治初期の日本。40才で気がついたら農商務省大書記官、商工局長心得などになっていたことだ。今で言う官僚である。今の官僚に飲ませたい薬のようなサンプルだ。ただ最後まで佐賀藩の庇護があったことは終身雇用で同じだが。

そして最後の驚きは、ほとんど他の自作品が無いと思われる(但し未確認)唯一のこの絵が、深く、黒田清輝もしのぐほどヨーロッパ直産のエロスを含んでいることである。知られているように、洋画、日本画を問わず裸体画は、明治の日本ではその居場所を見つけるのに半世紀あまりの苦痛を強いられてきた。卑猥という意味ではない裸体画のエロスについてはゆうに1ページの話になる。もちろん、エロスそのものについてはもっと必要だ。
ローマで我が意を得た百武兼行とはどんな男だったのだろうか。
残念ながら明治17年(84)、42才でこの世を去ってしまった。生きていれば、芸術と行政の関係など、多くの記録や仕事を残せたに違いない。