再考・なぜ言葉だけなのか

【日記・論】


なぜここでは言葉だけで表現するのか




このブログについて、そのような指摘があれば、ずっと言い訳めいたことを書いてきたことを白状しなければならない。そういうのも、視覚で表現するのが本業だからである。


ここしばらく、ふっとこの問題に触れることがあり、明確な自己のうちの意識が芽生えてきた。
視覚表現(写真、イラスト、図面などなんでも)とはまったく違う表現手段ゆえに、やはり言葉により言葉で表現するだけの意味もある、と。 たしかに言葉の世界のための補助機能、あるいは拡大効果機能としても、視覚表現の役割は非常に大きいが、適切な画像が準備出来ないなら無い方がいい、ということだと思う。


今朝、偶然にNHKテレビでホリデー訪問とかの番組があり、能登半島に住む本の表紙挿絵画家の西のぼるさん(確か)が出ていた。歴史小説の著者たちに絶大な人気なのだそうだ。
出版前の原稿をじっくり読み、キーワードになるものを探した上で、言葉で表現仕切れないものを行間から生み出す、という話だった。ここに納得できる分業のありかたが見える。、個人で両方をやる(あるいは出来る)とするなら、ここに分節、つまり別けて考える必然性の自己内倫理が生ずる。
私に言わせれば、つなげることだけでも大変なことなのだ。さらに画像と文章それぞれが「言おうとしていることを高いレベルで表現している」とでもなれば、本業を抱えた上での別の日々の仕事となり、過重労働この上ない。それでいて、両者が均衡を保って、高いレベルで自己主張する?なんてことはちょっと考えられない。主役と脇役が必要になるからだ。
本当なら、いい画像をじっくり見つけ、あるいは制作し、自ら楽しんで、あるいは苦しんで、言葉と映像の掛け合わせで仕事にしたいところだ。今日のように、画像、映像側に当たる「竹内栖鳳展」などを見た後では、さらにその感が深い。
そういう意味では、「今夜、食べて美味しかった飲み屋の肴」などを、写メやフェイスブックの画像で、コメントつきで見せるのとはわけが違う(と思っているわけだ)。


そういえば、週刊新潮に連載している藤原正彦氏の「管見妄語」の見開きページを時々見るが、大きな写真が「本文(言葉)で言っていること」とほとんど関係ない。奇異に思ったこともあるが、こうして考えてみると、「言葉で言いたいこと」「言葉でしかいえないこと」と、写真や画像とセットさせ、より効果的なページにすることは、実に大変なことであり、藤原氏の言おうとすることの多くはほとんど「画像翻訳」が不可能なのだ、という前提了解でやっているように理解できた。
これをもって、当面の理屈としたい。